太田述正コラム#5908(2012.12.16)
<日本の対米開戦はスターリンの陰謀?(その6)>(2013.4.2公開)
 (6)ホワイトの「活躍」
 「・・・モーゲンソーとホーンベックを巧みに操って、ホワイトは、米国の対日政策をどんどん敵対的な方向に変えて行くことができた。
 ローズベルトが、日本の支那からの漸次的撤退の見返りに米国の石油禁輸を緩和する話に同意しそうになった時、ホワイトは、モーゲンソーの署名入りの<以下のような>ヒステリックは書簡を起案した・
 血糊の付いた30枚の金貨の見返りに支那をその諸敵に売ることは、我々の欧州と極東における国家政策を弱体化させるだけでなく、ファシズムに対する偉大な民主主義的闘争における米国の世界的リーダーシップの輝かしい煌めきをにぶらせることになろう。
 <その結果、>妥協する代わりに、米国は、日本に支那からただちに撤退するよう、満州を中立化するよう、そして陸軍と海軍の装備の4分の3の米国への売却<(注20)>、を要求することとなった。
 (注20)’sell three-quarters of its military and naval production to the U.S.’という文章そのものが意味が良く分からないし、いずれにせよ、かかる条項はハルノート
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
の中にはない。コスターか書評子の勘違いだろう。
 この要求を侮辱かつ脅しと受け止めた、物怖じする(skittish)日本政府は、戦争は不可避であるという結論を下した。
 彼らは、真珠湾で米太平洋艦隊を、そしてフィリピンを攻撃する有事計画でもって前進し、かくして、スターリンは、ハリー・デクスター・ホワイトのおかげで、ソ連の東の脇腹における戦争を回避することができたのだ。・・・」(A)
 (7)その後のホワイト
 「ホワイトは、戦後も、転向者たるウィテカー・チェンバースとエリザベス・ベントリー(Elizabeth Bentley)<(注21)(コラム#5720)>が彼の華々しい失墜の引き金を引くまで、米国の政策をソ連の有利に形成することを継続した。・・・」(A)
 (注21)1938年から45年までソ連のスパイを務めた後、転向し、米国政府への情報提供者となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Bentley
 「・・・昔のことをよく覚えている人々や、トルーマン政権の時の、しばしば批判されるところの、議会における「魔女狩り」の知識のある人々なら、1948年8月13日の米下院非米活動委員会におけるホワイトの証言を覚えていることだろう。
 ウィテカー・チェンバースとエリザベス・ベントリーによる、彼が共産主義者であるとの仄めかしの後、ホワイトは汚名をそそぐために聴聞を求めた。
 彼に質問した人々の1人が、ほとんど知られていなかったカリフォルニア州選出の下院議員のリチャード・M・ニクソンだった。・・・」(B)
 「彼は、1948年、恐らくは自殺によって死んだ。
 それは、下院非米活動委員会における大災厄的出頭の3日後のことだった。
 彼は、FBIによって、1950年に裏切り者とされたが、ソ連の彼の担当(handler)であり、最終的にKGBの中将になったビタリー・パヴロフが、回顧録を1996年に出版するまで、彼が真珠湾を引き起こしたことについての全部の物語が知られるところとはならなかった。・・・」(A)
3 終わりに
 順序が逆になりましたが、ホワイト自身のことについて、ウィキペディアを引用しておきましょう。
 「リトアニア系ユダヤ人移民の両親のもと、マサチューセッツ州ボストンで生まれた。高校を卒業後、職に就き、その後1917年にアメリカ陸軍に中尉として入隊し第一次世界大戦に従軍する。帰還後の1924年にコロンビア大学に入学し経済学を学ぶ。その後スタンフォード大学を経てハーバード大学<等>で経済学の助手として勤務した後、ハーバード大学の大学院に入り、1935年に博士号を得ている。1932年1月にロークリン・カリーらとともにつくった覚書は財政政策においてはケインジアンの先駆け、金融政策ではマネタリストの先駆けと評されている。
 第2次世界大戦が勃発すると、ソ連援助を目的とした武器貸与法の法案作成に参画し、これは1941年3月に成立している。
 1941年11月17日に「日米間の緊張除去に関する提案」を財務長官ヘンリー・モーゲンソーに提出、モーゲンソーは翌18日にこれをフランクリン・ルーズヴェルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。これがハル・ノートの原案である「ホワイト試案」(または「ホワイト・モーゲンソー試案」)となり、大統領命令により、ハル国務長官の「ハル試案」と併行して国務省内で日米協定案とする作業が進む。25日に大統領の厳命により、ハル長官は「ハル試案」を断念、この「ホワイト試案」にそっていわゆる「ハル・ノート」が日本に提示される。
 この「ホワイト試案」の採択には、カリーとその盟友であるオーウェン・ラティモアの暗躍があった。。
 ブレトン・ウッズ協定及び国際通貨基金 (IMF) の発足にあたって、イギリスのケインズ案と<米国>のホワイト案が英米両国の間で討議されたが、IMFはホワイト案に近いものとなり、以後世界ではドルが基軸通貨となる。 1945年「対ソ100億ドル借款案」がモーゲンソー財務長官を経て、ルーズヴェルト大統領に渡っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88
 このウィキペディアは、「一部の論者は、ホワイトをソ連コミンテルンのスパイであると主張している。」としていますが、コスターは、(直接この本にあたってみないと断言はできませんが、)ホワイトがスパイであったことを証明することについに成功した、と見てよさそうです。
 しかし、仮にそれが証明できたとしても、ソ連が、米国にハルノートを日本に突き付けさせることに成功し、その結果日本をして対米(英)開戦することを余儀なくさせた、ということには必ずしもなりません。
 ローズベルト自身、対独開戦をやりたがっており、対独開戦につながる可能性があるところの、日本による対米開戦を待ち望んでいたと考えられること・・そもそも、フライング・タイガース派遣が事実上の対日開戦であることを当然彼は認識していたはずです・・米財務省のみならず、米国務省にも(ソ連のスパイでも何でもない)ホーンベックのような親支那/反日派幹部が巣食っていたこと、そして、チャーチルもまた、蒋介石政権支援と対米工作を通じて、米国の先の大戦への参戦とその契機となる日本による対米開戦の実現を期していたこと、等を踏まえれば、ソ連による対米工作など、相対的にマイナーな要素でしかなかったと言わざるをえないからです。
 そもそも、ソ連ファクターを重視するのであれば、コスターは、日本がどうして対ソ開戦と対米(英)開戦の両にらみを余儀なくされたのか、ソ連こそ日本にとって唯一最大の仇敵ではなかったのか、対蒋介石政権の戦争にせよ、この政権を支援した米(英)に対する敵対にせよ、全てはソ連を抑止し、場合によってはソ連に侵攻するための手段だったのではないか、というラインを追及すべきだったのです。
 それをやらずに、いわば枝葉末節な話にのめり込んで本を書いたコスターは、せっかく日本人の女性を娶ったというのに、戦前の日本の外交・安全保障政策の根幹についての認識が欠如している、と私としては断じるほかありません。
(完)