太田述正コラム#5954(2013.1.8)
<日進月歩の人間科学(続x28)>(2013.4.25公開)
1 始めに
 このところ、立て続けに、人間主義の基本に係る科学記事が載ったので、ご紹介しておきましょう。
2 共感(empathy)の普遍性
 「・・・例えば、精神病質者は、他人の感情を読むことには非常に長けている反面、自分自身は感情的に動かされないでいる。
 暴力の履歴があり、「行動障害(conduct disorder)」と診断された青年も同様の特徴(traits)を示す。
 対照的に、自閉症やアスベルガー症候群の人々は、非言語的感情の兆表(signals)その他の社会的手がかり(clues)を読み取るのは苦手だが、ひとたび彼らが他人の気持ちを自覚するに至るや、これらの感情を濃密に共有することが可能だ。
 これがどういうことかと言えば、精神病質者もアスベルガーの人も、どちらも共感能力はゼロだと形容できるのだけれど、精神病質者だけが極端に残酷なことができる、ということだ。・・・
 ・・・<ちなみに、>他人の不幸は蜜の味(schadenfreude)なるものは、他人の苦悩(distress)を鏡に映すように共感しつつ、同時に、この苦悩に快感覚えることだ。・・・
 <また、>2011に<ノルウェーで大量殺人事件を起こした>アンデルス・ベーリング・ブレヴィク(Anders Behring Breivik)<は、自分の>・・・裁判において、自分は共感能力は完全に備えているが、自分の気持ちを乗り越える「瞑想テクニック」を用いた、と主張した。・・・
 ・・・<共感能力の程度は所与のものとは必ずしも言えないのであって、>瞑想によって同情心(compassion)について熟考すること(contemplate)を訓練した仏教徒の脳造影研究を行ったところ、偏桃体やその他の脳の部位の共感回路の活動が活発化していることが示された。
 小説、テレビ、そしてインターネット<を鑑賞すること>は、さもなければ考慮することがなかったであろうところの、<たくさんの>人々のものの見方(pespectives)に<自分が>晒されることであり、それによって、より大きな共感能力を養うことができる。
 共感能力が「人道的理性(humanitarian reason)」によって補強された(married with)場合には一層そう言える。
 この力こそ、ハーヴァード大の心理学者のスティーヴン・ピンカー(Steven Pinker)が啓蒙時代以降の社会的暴力水準の着実な下降の理由と考えるところのものだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/science/2013/jan/04/barack-obama-empathy-deficit
→これまで、私が紹介してきたところの、人間主義がらみの科学的知見のいくつかが整理されて示されていますね。(太田)
3 人間主義の生来性
 「・・・我々は本来的に腐敗している(basic rottenness)とするのが、例えば・・・スティーヴン・ピンカーであり、彼は、何世紀にもわたって人間の暴力の減少をもたらしてきたのは、人間の本姓というよりは、社会の規制力であることを論証した(documented)。
 我々は本来的に礼節を貴ぶ(decency)とするのが、驚くべきことに、エモリー大学のフランス・デ・ヴァール(Frans de Waal)のような霊長類学者であり、彼は、霊長類は、利他主義、相互主義、共感、そして正義の感覚の原初形態(basics)を見せてくれることを観察してきた。
 これらの諸徳は、人類に先立って長きにわたって受け継がれてきたのだ。<(注)>
 (注)ガーディアンの記事(上掲)には、2011年に行われ、ネズミにも他のネズミに対する共感能力があることを確認した実験が紹介されている。
 
 我々は、過去に戻って彼らを研究することができないので、原始的な人類がどんなであったかという問いに答えることが困難なことは言うまでもない。
 しかし、この論点に迫るもう一つの方法は、瞬時の直観的(gut)意思決定を行うことを強いられるという、原始的方法で行動しなければならない人々を研究することだ。
 速やかに直観(intuition)によって行動しなければならない場合、我々は、平素に比べてより高貴になる傾向があるのかならない傾向があるのか?・・・
 人々が速やかな意思決定を直観に基づいて行わなければならない場合、協力の水準が上昇する。
 <他方、>彼らに智慧を働かせて自分達がとる行動を考慮する時間を与えると、その反対のことが生じた。・・・
 人々を素早い直観的意思決定を是と思うように仕向けると、彼らはその後のゲームにおいて共通の善に向けてより行動するようになった。
 その反対に、人々を熟考方向へと、すなわち、「一番良いものを追求するよう」誘うと、研究主宰者達が「計算された貪欲」と名付けた何物かであるところの、しゃしゃり出る傾向が見いだせた。・・・
 ・・・<このことと関連するのが、>どれくらい日常生活で関わり合う人々を信頼できるかだ。
 相手がより信頼できれば、より速い、直観的思考が彼らの背中を協力の方向へ押した。
 すなわち、もしこの世界が慈悲深い場所だと見てとれば、<様々な>状況下で速射砲的な反射的対応がなされ、それが慈悲を一層広げて行くことになりがちなのだ。・・・」
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-sapolsky-human-nature-20130106,0,4779597,print.story
→人間は、生来的には人間主義的である、ということはもはや証明された、と言ってよいのではないでしょうか。
 しかし、人間主義が発露するためには、相互信頼性が社会において成立していなければならないのですから、鶏が先か卵が先かのような話です。
 どうやら、人間主義が抑圧されている社会において人間主義を発露させることは容易ではない、と言えそうです。
 日本は、原始時代以来、人間主義が基本的に絶えることなく発露し続けているという、世にも稀な社会であり、しかも、座禅によって人間主義を発露させることを旨とする禅宗を含む仏教の国であり、それにもかかわらず・・それとも、だからか?・・、(人間主義の哲学こそ、和辻哲郎が世界で最も早い時期に構築したけれど、)人間主義の科学については英米の後塵を大幅に拝してしまいました。
 その日本が、せめてものこと、今後、人類全体のために行わなければならないのは、人間主義の哲学の普及と、人間主義を発露させる方法論の研究・普及であろう、と私は考えるものです。(太田)