太田述正コラム#5960(2013.1.11)
<大英帝国論再々訪(その7)>(2013.4.28公開)
 英国の沖合の位置、すなわち、欧州に近いけれどくっついてはおらず、地中海とアフリカから遠く離れてはおらず、スカンディナヴィアのシーレーンを斜めに横切っていて、南北アメリカ大陸から大洋を隔てていることは、同国が、戦略的かつ商業的に極めて良い場所を占めていることを意味した。
 英国が強力なロイヤル・ネーヴィーを維持している限り、英国は、同国の大陸における大部分の競争相手達が整備を強いられていたところの、大きな常備陸軍のための出費を免れることができた。
 <また、>帝国主義に至ったのが比較的遅かった英国は、交易路群を探索し帝国の諸装置の多くを供給したところの、スペイン人、ポルトガル人、及びオランダ人によって既に樹皮に白い目印をつけて示された有用なる(blazed)小道群を見つけ、それらを(非常にしばしば、その海軍の優位を通じて、黙って失敬して組み合わせることによって)<帝国主義を>完成させた。
 それ以降は、とりわけ発明が続出したヴィクトリア時代のあらゆる発明が使用に供され、とりわけ、ダーウィンが示すように、「鉄道は、それまで主として海上権力であった英国を、陸上と海上の権力へと転換させたが、それによって、<英国の>能力は大きく増加した」。
 著者はこの巨大なる案件の全ての主要な資料源に頗る通暁しており、例えば、ソールベリー(Salisbury)<(コラム#305、3533、3566、3581、4018、4458、4870、5034、5040、5302、5304)>卿の南ア諸政策とか、ウィンストン・チャーチルによって1924年12月になされた不幸な予言であるところの、「日本との戦争だって? 私は自分の生涯でそれが起きる可能性なんてほんのちょっともないと思う(Why should there be a war with Japan? I do not believe there is the slightest chance of it in my lifetime)」とか、その諸主張を裏付ける事例を、諸世紀と諸大陸から縦横無尽に抜き出してくる(pluck)ことを可能にしている。
→このチャーチルの言は、まことにもって興味深いものがあります。
 まさに、チャーチルならずとも、日本と英国との戦争など、およそ起こりえないはずであったというのに、あろうことか、このチャーチルが首相となったために、起こりえないはずのことを彼自身のイニシアティヴで起こしてしまったのですからね。
 何度も繰り返して恐縮ですが、これこそまさに、大英帝国の自殺行為であったわけです。(太田)
 常に根深い反帝国主義的少数派を抱えていたところの、英国の多元的社会、その宗教的寛容、その柔軟な政治システム、その開かれた市場と自由貿易諸政策、そして常に洗練されていた金融諸手段、そしてまた、ロンドンのシティーとドックランズ(Docklands)<(注12)>それ自体、は、英国が、ダーウィンが「諸境界と諸限界を持った認識できる塊というよりは、世界中にばらまかれた巨大な列島」と見た帝国を運営するのに完全に適合的であることを意味した。
 (注12)「イギリスのロンドン東部、テムズ川沿岸にあるウォーターフロント再開発地域の名称。・・・現在は、主に商業と住居が混在した地域として再開発されている。
名前の基となった「ドック」とは、一時は世界最大の港であったロンドン港の港湾荷役用の水面のことであった。第二次世界大戦後、船舶の大型化・コンテナ化など物流革命に伴い、ドックランズは衰退し、廃墟となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BA
 英国留学時代に、中学時代の同級生で、(後に東京都港区長にもなった、)建築家で当時ウォーターフロントを研究していた原田敬美君
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%95%AC%E7%BE%8E
がロンドンにやってきた際、事前の彼の要望を踏まえ、ドックランドの見学ツアー日程を組んであげ、彼と一緒に、ドックランド再開発関係団体を含め、再開発中のドックランド地区を見て回ったことがある。
 <英国の>いくつかの持ち物<(所領)>は宝石だったが、残りは「はっきりした理由なしに放棄するのがむつかしいので獲得された雑魚」だった。
 1900万人・・これは欧州の他のどの部分に比べても2倍以上だ・・を下回らない英国人が1815年から1930年の間に<海外に>移住することを欲したのもまた枢要なことだった。
 (二番目は900万人のイタリア人だったが、彼らの大部分は米国に落ち着いた。)
 直接統治した宝石群と雑魚群のほか、英国は、自国にとって重要な場所において、広範な非公式帝国に係る覇権をも享受した。
 それには、アルゼンチン<(注13)>、ウルグアイ<(注14)>、そしてエジプト<(注15)>が含まれた。
 この「見えない」帝国は、1945年以来、多くの場所で米国が享受した類の影響力の型板(template)となった。」(B)
 (注13)アルゼンチンは、「1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国の様相を呈するようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3
 (注14)ウルグアイに係る日英両ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4
http://en.wikipedia.org/wiki/Uruguay
には英国との特殊な関係への言及は全くない。ダーウィンか書評子の勘違いではないか。 (注15)「1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、<英国>の進出を招いた。1881年に・・・起きた反英運動<が>・・・イギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となる(正式には1914年)。1914年には、第一次世界大戦によって<英国>がエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年・・・にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E3.82.B9.E3.82.A8.E3.82.BA.E9.81.8B.E6.B2.B3.E3.81.A8.E3.82.A8.E3.82.B8.E3.83.97.E3.83.88.E3.81.AE.E5.BE.93.E5.B1.9E
 1936年に締結された英埃条約(Anglo–Egyptian treaty)は、事実上継続していたエジプトの保護国状態を公式化するものであり、英国はエジプト軍の装備と訓練を独占的に引き受けることとされ、自由に空軍基地を設けることが許され、また、エジプト軍が装備と訓練面で整備されるまでの間、英陸軍はエジプトへの駐留を続けることとされた上、有事にはスエズ運河地区に陸軍を配備できることとされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Egyptian_Treaty_of_1936
http://i-cias.com/e.o/angl_tr_egyptian.htm
→(ウルグアイについては論外として、)最近の自由貿易協定のケースを除けば、戦後、米国がかつての英国とアルゼンチンのような関係を取り結んだ国はなかったのではないでしょうか。
 また、19世紀前半の英国とエジプトとの関係も、英国の片務的防衛義務を伴ったという点で、戦後の米国と日本との関係に類似している部分があり、その限りにおいて、戦後日本は(戦前から戦後にかけてエジプトが英国の保護国であったように)米国の保護国であるわけですが、米国が日本以外の国々と結んだ安全保障条約は、全て、形の上では双務的なものでした。
 そうだとすれば、日本のケースだけでもって、英国の「「見えない」帝国は、1945年以来、多くの場所で米国が享受した類の影響力の型板・・・となった」とは言えそうもありません。(太田)
(続く)