太田述正コラム#0159(2003.9.25)
<日本の防衛力の過去と現在(その1)>

(本日、新聞記者5名を相手に行ったレクチャーの原稿を、二回に分けてご披露します。)

本日は、日本の防衛力の過去と現在についてお話をさせていただきます。
 本件とずばり同じタイトルの拙稿を、昨年、民主党のシンクタンクの機関誌に掲載(私のホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄にコラム#58として再録)したほか、この拙稿と中身的にオーバーラップする拙文・・コラム#30・・もあり、また、拙著「防衛庁再生宣言」(日本評論社)や昨年月刊誌『選択』に掲載した有事法制に関する拙稿(コラム#21として再録)、更には昨年、民主党本体の機関誌に掲載した拙稿(コラム#57として再録)等にも関係する記述がありますので、これらに今後目を通していただける、ということを前提に、本日は自由かつ雑ぱくなお話をさせていただきます。

1 始めに

 最初にお断りしておきますが、私は民主党と現在関わりがあるわけではなく、今度の総選挙や来年の参議院選挙に立候補する予定もありません。
 そもそも本日ご出席のH記者は、上記シンクタンク機関誌掲載の拙稿を読まれて私に声をおかけになったと伺っていますが、実は同じ頃、民主党本体の機関誌にも、冒頭でご紹介したように拙稿が載りました。このことからすれば、現在もさぞかし民主党と私の関係には深いものがあり、当然私は民主党から次の選挙にも出るのだろうと思われることでしょうが、それはお考え違いです。
 確かに、私は一昨年の参議院選挙の比例区(全国区)に民主党からお誘いがあって出馬し、落選した経緯がありますが、今にして思えば、もともと同党に私を安保・防衛問題の専門家として情報の収集と政策の立案に活用しようというお考えが全くなかった以上、同党と私の関係が疎遠になるのは避けられません。
 では、どうして当時拙稿が二本も民主党関係の雑誌に載ったのでしょうか。遺憾ながら、そこには民主党の党としての意志が働いていないことはもとより、いかなる民主党の議員の意向も働いていません。
 たまたま、私の高校時代の同級生H君が民主党の事務局におり、彼がこの二つの機関誌発行の実務をそれぞれ担当している事務局仲間の間を何ヶ月にもわたってかけずり回ってくれたおかげで、ようやく掲載までこぎ着けることができたというだけのことなのです。
 掲載してもらったことは大変結構なのだけれど、その後、民主党関係者からもその他からも、ただ一つの反響もなく一年以上が経過しました。今回の皆さんからのレクチャー要請は、拙稿に対する初めての反響らしい反響だということになります。
 民主党の若手議員には政策通が多く、安保・防衛問題についても造詣が深いと自他共に許す人が何人もおられるにもかかわらず、そういう人も含め民主党の議員達にはまだまだ安保・防衛問題の本当の重要さが分かっていない、と申し上げざるを得ません。
 もっとも、議員諸公が防衛問題を避けて通る気持ちは分からないでもありません。同時多発テロ、北朝鮮による拉致問題や核問題、アフガン戦争、イラク戦争があったというのに、日本の選挙民は三面記事的にこれらの問題に興味を寄せているだけで、依然として安保・防衛問題の重要性に真に目覚めてはいないと彼らは見ていますし、私自身もそう思います。そうである以上、彼らが選挙の票に結びつかない話に関心を示さないのはごく自然なことと言うべきかもしれません。
 しかし、安保・防衛問題は本質的に重要であるだけではありません。
実は自民党の最大の弱点は、いまだに吉田ドクトリンの呪縛の下にあるその支離滅裂な安保・防衛政策にあるのであって、民主党はこの弱点をつくべきなのです。そのためにも、民主党として、確固たる安保・防衛政策を確立する必要があります。逆に言えば、そうしなければ、政権奪取は、よほどの敵失でもない限り、永久に不可能だと断言してもいいでしょう。
 いずれにせよ改めて痛感するのは、先の大戦における敗戦やそれに伴う占領期の後遺症というより、むしろ主権回復後の吉田ドクトリンの墨守が日本人の精神にもたらした取り返しのつかないダメージです。吉田ドクトリンとは、国際社会の平和と安定の維持と自らの安全保障とを米国に丸投げし、もっぱら経済的繁栄の追求に専念する国家戦略です。私見によれば、この吉田ドクトリンの墨守は言葉の本来の意味で日本人を米国の家畜に化せしめることとなり、その結果日本人の知性は鈍磨し、かつ人間らしい惻隠の情を日本人は失うに至ってしまったのです。
しかし、この話は始めるときりがありません。ご関心ある方は拙著をお読みいただくということで、先を急ぐことにしましょう。

2 日本の防衛をめぐる環境

 日本の防衛をめぐる環境は、??根強い反軍感情が存在する、??自国の中心的な領域が武力攻撃を受ける可能性が殆どない、??経済大国である、??開放的な民主主義国である、という四点で米国の防衛をめぐる環境ときわめて似通っています。
 このことを、日本で防衛問題を論じる際の共通の前提にしないと不毛な議論にしかならないでしょう。
 つまり、日本の防衛について論じようと思ったら、その議論が果たして米国自身についても成り立つかどうかを常に省みながら論じなければならないということです。
 若干補足しておきましょう。
?? についてですが、日本の場合は、日本文明の古層に縄文モード、表層に弥生モードがあり、この両モードが切り替わりつつ日本の歴史が進行してきたと私は考えています。この縄文モードの属性は、内向き、国風文化の成熟、平和主義、そして人口の停滞であり、弥生モードの属性はこの逆です。昭和初期から日本は縄文モードに転換を始め、先の大戦における敗戦を契機として決定的に縄文モードに入ったと私は見ています。
他方、米国の場合は、イギリス由来の常備軍に対する不信感があります。先の大戦直前までの米国がわずかな軍事力しか保持していなかったことや、ベトナム戦争を兵力の逐次かつ不十分な投入という形で戦い、しかもその「敗戦」後しばらくの間反軍感情が燃えさかったことは、常備軍に対するこの文明論的不信感の存在によって説明ができます。
このように、それぞれ様相は異なるものの、根強い反軍感情が日米両国には見られるわけです。なお両国において、このような反軍感情の持続が可能であったのは、次に説明する??と無縁ではないことは容易に想像できるところです。
いずれにせよ、反軍感情が強いことは、マイナス面ばかりではなく、精強な軍事力を構築する契機にもなりうることを忘れてはならないでしょう。この点も、拙著をご参照ください。
次に、
 ?? ですが、米国については多言を要しないでしょう。日本については、米国ほどではないけれど、島国であることがやはり大きいのです。しかも、戦後一貫して在韓米軍と韓国軍によって朝鮮半島において、日本から見てアジア大陸向けの前方防御がなされているのですから、例えばかつてのソ連が日本に対して武力攻撃をかけることは至難の業だったのです。
   ただし、米国にせよ、日本にせよ、ミサイル時代になってからは核を始めとする大量破壊兵器による攻撃を受ける可能性はありますし、テロや不審船といった形の武器攻撃(私の造語)を受ける可能性もあることを忘れてはなりません。
?? については、日本も米国と同様、全世界に利害を有する大国であることから、世界の平和と安定に応分の貢献をしなければならない立場にあるということです。
 ?? については、当たり前の話ですが、開放的な民主主義社会において、国民に、秘密がつきものの安保・防衛問題について適切な判断をしてもらうのは、容易なことではないことを、両国の為政者は肝に銘じるべきでしょう。

(続く)