太田述正コラム#6012(2013.2.6)
<エリザベス1世の時代(その2)>(2013.5.24公開)
 (2)大陸側の工作
 「法王ピオ5世(Pius 5)がこのイギリスの女王を破門したのは1570年であり、それによって、彼女のカトリック教徒たる臣民達は、彼女に対する服従の義務から解放された。
 その2年後に起こった、パリでのサン・バルテルミの虐殺(St Bartholomew’s Day massacre)<(注3)>は、イギリスのプロテスタント達に対し、恐るべき、カトリック教徒たる反キリストがすぐ近くにいること、を強く印象付けることになった。・・・
 (注3)Massacre de la Saint-Barthelemy=聖バーソロミューの虐殺。「宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。
 国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹・・・(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた。
 2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公<(前出)>の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる・・・。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーは暴君放伐論を唱えてより強硬に抵抗するようになり、<国王派である>穏健派カトリックも独自勢力・・・を形成するようになった。
 2年後にシャルル9世が死去し、1576年にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した。その後、内乱は<穏健派カトリックの>新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、・・・<強硬派カトリックの>ギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の1589年にナバラ王アンリが王位を継承する(アンリ4世)。この宗教戦争は1598年にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA
大陸に亡命していた<イギリス人>カトリック教徒達はエリザベスの体制に敵対的と見なされ得たし、イギリスのカトリック教徒達は脅威たる第五列と見なされ得たし、その全てが、霊感を与える(inspirational)博士(後に枢機卿)たるウィリアム・アレンの後援の下にあったところの、ドゥエ(Douai)、ライム(Rheims)<(注4)>、及びローマの各神学校からは、イギリス人たる良民達(souls)をイギリス人たる悪女(Jezebel)の専制から救済するよう教え込まれ、その用意があったところの、宣教団たる「突撃隊(storm-troops)」が<イギリスに>やって来た。」(E)
 (注4)二つとも、フランス東北部の都市。
http://en.wikipedia.org/wiki/Douai
http://en.wikipedia.org/wiki/Reims
 なお、ドゥエのイギリス単科大学(English College, Douai)で聖書のラテン語から英語への翻訳が行われ、新約聖書部分については、1582年にライムで出版された。これをライム・ドゥエ聖書(Rheims–Douai Bible)という。
http://en.wikipedia.org/wiki/Douay-Rheims_Bible
 僧侶達とパンフレット群のフランスからの流入、スコットランドとの国境の向こう側におけるイギリス女王を僭称する者<たるメアリー>なる存在、外国における<対イギリス>諸策謀とカトリックの噴飯ものの諸流儀(popery)についての恒常的噂群、を踏まえれば、シェークスピアの諸史劇中を一貫して流れるところの、暴動や叛乱への恐怖が、エリザベス期の人々の心中を支配していたことは少しも不思議ではない。」(D)
 「メアリー・スチュアート・・・の1587年の処刑は、もう一人の巨大なカトリック陰謀家たるフィリップ2世に、彼の無敵艦隊をイギリスに出撃させる・・これは、16世紀の欧州における、最も良く知られた秘密だった・・ために必要とした<絶好の>言い訳を与えた。
 フィリップのこの動きは、エリザベスの閣僚達がそれまでの30年間極めて恐れていたことの全てが集約されたものだったが、<イギリス艦隊の奮戦と大暴風によってアルマダが壊滅したことから、結果として、>この女王の最良の時をもたらすこととなった。」(G)
 「<イギリスにおいては、>終わることなき諸陰謀と暗殺策謀群によって不安と不信の空気が募った。
 1569年の北方の伯爵達の蜂起(Rising of the Northern Earls)<(注5)>、1569~71年のリドルフィ策謀(Ridolfi Plot)<(注6)(コラム#4282)>、1583年のスロックモートン策謀(Throckmorton Plot)<(注7)>、そして1585~86年のバビントン策謀(Babington Plot)<(後述)>は、暴動、外国からの侵攻、或いは単純な暗殺によってこの女王を退位(dethrone)させようとする繰り返された諸試みのうち最も良く知られているものに過ぎない。
 (注5)Rising of the North=Revolt of the Northern Earls=Northern Rebellion。イギリス北部のカトリック教徒たる領主達が起こした蜂起。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_of_the_North
 (注6)ロンドン在住の国際銀行家たるフィレンツェ貴族、ロベルト・ディ・リドルフィ(Roberto di Ridolfi。1531~1612年)が企画したエリザベス暗殺計画。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot
http://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_di_Ridolfi
 (注7)エリザベスの首席侍女の従兄弟のフランシス・スロックモートン卿(Sir Francis Throckmorton。1554~84年)による、エリザベス暗殺、ギーズ公によるイギリス侵攻、イギリス国内のカトリック教徒の叛乱計画。
http://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Throckmorton
 1596年だけでもこの種の策謀が3つあったのだから・・。
 これらの陰謀の多くは、エリザベスをカトリック教徒のメアリー・スチュアート・・その強制された退位(abdication)以後イギリスに亡命していたところの、前スコットランド女王・・でもって置き換えようとするものだった。
 メアリーの王位継承への強い世襲的要求(claim)は、1587年における彼女の処刑によってしか終わらせることができなかった。
 陰謀者達中突出していたのは、エリザベスの王位継承の後に大陸へ逃げていたイギリス人カトリック教徒たる亡命者達だった。
 元オックスフォードの聖メアリー学舎(St Mary Hall)の舎監(Principal)であったウィリアム・アレンという精神的指導者の監督の下で新たに創建された、ドゥエとライムにおける神学校で僧侶職に向けて青年達は訓練を受けた。
 彼らは、やがて、宣教師として、この国をローマの下へ戻すためにイギリスに送られた。
 イギリスのカトリック教徒の大部分は、自分達の宗教でもって女王への自分達の忠誠を揺がすことを拒否したし、神学校<出>の僧侶達も自分達の宣教が純粋に精神的なもの(pastoral)であるとみなしていた。
 しかし、アレン自身は、法王の<国王>退任権を信じており、<スペインによるイギリス>軍事侵攻政策にコミットしていた。
 あるイギリス人僧侶は、1596年にスペイン王のフィリップに、「もしイギリスの完全な破壊が神のより偉大なる栄光のためならば」自分はそれがなされることを喜んで見守りたい、と請け合ったものだ。」(B)
(続く)