太田述正コラム#0167(2003.10.8)
<トルコについて(番外編2)>

前回から取り上げている本、Political Modernization in Japan and Turkey (Princeton University Press, 1964。以下「『本』」という)、は色々なことを考えさせられます。

1 トルコと日本との比較

 確かに日土両国は、『本』が指摘するように欧米の植民地にならなかった(PP8)数少ない非欧米国である、という点ではかろうじて共通性があります。
しかし、オスマントルコのサルタン、アブデユル・ハミト二世(在位1876-1908年)が自ら回顧録に記しているように、日本は「単一民族、単一宗教、単一言語」であった(注1)のに対し、オスマントルコはその正反対であり、かつオスマントルコの安全保障環境は同時期の日本のそれとは比較にならないくらい厳しいものがあった、という二点だけをとっても、日本とオスマントルコは「対極的」な存在(http://www.fas.harvard.edu/~rijs/Global_Turkey_v9n1_2003.html。10月7日アクセス)だったのです。

(注1)「単一宗教」が仏教を指すのか神道を指すのか不明だが、日本は幕末期において既に世俗化した国であり、この箇所に関してはサルタンには誤解がある、と言った方がよかろう。

 第一『本』では、オスマントルコとトルコ共和国を同一の国の異なった時代として扱っているのですが、そのことにも無理があります。
 オスマントルコの一般将校(general staff)の93%がトルコ共和国軍で軍務を継続した(『本』388頁)という事実はありますが、領域が数分の一に縮小し、民族・宗教・言語が相対的に純化したトルコ共和国が、オスマントルコと同一の国であるとは言い難いのではないでしょうか。
 更につけ加えれば、トルコはむしろ近代化の失敗例とさえみなしうるのであって、はたして「近代化」の比較研究の対象としてふさわしいかどうか疑問です。
(2001年時点で見ると、トルコの一人あたりGDPは拡大NATOの最貧国であるポーランドの半分弱に過ぎず、日本のわずか7%弱にとどまります(The Military Balance 2002-2003, IISS PP254、255、299)。『本』の執筆当時ではトルコの所得水準はまだ日本の半分程度だったとは言え、一次産業比率や都市居住率等の近代化指標を総合的に勘案すれば、当時といえども、日土両国の「近代化度」の差には決定的なものがありました(PP8、437)。)
 従って、トルコと日本を比較したことには疑問符がつきます。
1998年に、世界システム論で有名なイマニュエル・ウォーラースティン(Immanuel Wallerstein)が、1960年代前半当時になお日本とトルコを同じ土俵に乗せていたとして、『本』のイマジネーションの欠如を皮肉っています(http://fbc.binghamton.edu/03en.htm。10月7日アクセス)。

2 トルコとアラブ諸国の比較
 
 しいて比較研究をするのであれば、植民地歴のない国とある国々という違いはあっても、同じイスラム国であるトルコ共和国とアラブ諸国を比較する方が意味がありそうです。
 人口がそこそこあるが大産油国であるサウディや、産油国であって人口が少ないバーレーン、クウェート、カタール、アラブ首長国連邦(注2)を除くどのアラブの国よりもトルコ共和国の一人あたりGDPは高い(2001年。The Military Balance 前掲PP255、279-282)理由を解明するためです。

 (注2)リビアも産油国であって人口が少なく、本来であればトルコより一人あたりGDPは高いが、経済制裁下にあるため、トルコを下回っている。

 現在のトルコとアラブ諸国の違いの原因としては、やはり植民地歴があるかどうかが大きいと思われます。トルコ共和国は植民地歴がないのに対し、中東はアラブ化以前から筋金入りの植民地社会であったと言えますが、そこまで遡らないとしても、アラブ諸国は、すべてオスマントルコか英仏伊三カ国のうちの一カ国、あるいはその双方の植民地であった「屈辱」の歴史を共有しています(注3)。

(注3)モロッコとサウディの内陸部だけがオスマントルコの植民地になっていない。なお、サウディの内陸部は、英仏伊グループ(英国)の植民地にもならなかった。

??部族―

長い植民地歴がアラブ社会に残した傷跡(そしてそれがいかに近代化の障害になっているか)については前に述べたことがあります(コラム#87)が、結婚が父系のいとこ婚中心だという日本人には余り知られていない事実も、植民地であったことの産物であると考えられます。いとこ婚によって十重二十重に結びついた集団が部族(tribe)であり、アラブ社会はこのような意味での部族社会なのです。
長期にわたる苛烈な植民地社会においては信頼できるのは家族だけである以上、結婚も兄妹間で行いたいぐらいであるが、それでは文字通りの近親結婚になっていしまうので、優生学上は依然好ましくないけれども、父系のいとこ同士、それがだめでも又いとこ同士で結婚するわけです。
他方、父系のいとこ婚中心の婚姻風習は、トルコ共和国を含め、アラブ社会以外ではでは全く見られないところです。
女性が顔をヴェールで覆うというアラブ諸国の風習は、全くコーラン等に根拠がないにもかかわらず、アラブ圏共通の風習となったのですが、これは、父系のいとこという数少ない身内を相手に女性が結婚するのが通例である以上、その顔を露出することによって、不特定多数の赤の他人の男性の関心を惹く必要はないし、惹いてはならないということなのです。
(以上、http://www.nytimes.com/2003/09/28/international/middleeast/28CLAN.html?pagewanted=2&hp(9月28日アクセス)及びhttp://www.nationalreview.com/contributors/kurtz013102.shtml(10月7日アクセス)による。ただし、植民地歴と結びつけた部分は私見。)
20名もの死者を出してブッシュ政権製の中東和平ロード・マップにとどめをさした観のある先般のイスラエルのハイファでの自爆テロは、29歳の弁護士になったばかりのインテリ女性によって決行されましたが、その動機は弟と許嫁の「いとこ」をイスラエル兵に殺されたためだった(http://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,2763,1056482,00.html。10月5日アクセス)こと、が思い起こされます。
イラクもまた典型的な父系いとこ婚社会であり、結婚の半分近くがいとこ婚または又いとこ婚です。「イラクでは、しばしば身内びいき(nepotism)は問題であるどころか、道徳的義務だと評される」のですし、「サダム・フセインを発見すること、女性の地位を向上させること、そして自由民主主義を定着させること等、米国がイラクでやろうとしていることすべてをややこしくしているのが<いとこ婚に象徴される>強い家族<ないし部族の>の絆」である(ニューヨークタイムズ前掲)といいます。
こういうわけで、部族が、トルコと比較した場合のアラブ諸国の近代化の阻害要因となっているのです。

―軍隊―

コラム#263で、「トルコは軍隊そのもの」であって、オスマントルコは「統治下の多数の民族を軍隊にリクルート」したと書きましたが、その民族の中にはアラブ人は含まれていませんでした。
それは、サルタンの地位をおびやかしかねない軍閥の台頭を避けるため、「オスマントルコの常備軍は奴隷・・の中からリクルートされた。彼らは、帝国のキリスト教徒たる臣民の子供をリクルートして帝国の<軍事>訓練学校でイスラム教徒として育て上げた者であるか、外国・・主としてコーカサス地方・・から輸入された者であるかのどちらかだった」(『本』PP357)からです。
しかも、コーラン(イスラム教)の「戦闘性」にもかかわらず、故郷のサウディ地方に住んでいた時代の商業の民としての性格を受け継いでいる現在のアラブ人は、本来的に軍人向きではありません(注4)。

(注4)イスラム生誕直後のアラブ大帝国の形成は、アラブ人の軍事的才能のたまものというより、長期にわたるビザンツ帝国とペルシャ帝国間の抗争によって疲弊していた、両国の国境地帯へのイスラム化したアラブ人による侵攻が、同地帯の農地の一層の荒廃を招き、食い詰めた住民達が(イスラム教に入信して)アラブ軍へ流入し、結果として肥大化したアラブ軍が領土(食糧)を求めて両国国境地帯以外にも侵攻し、爾後同じことが繰り返されて雪だるま式に征服地が増えて行ったことによる(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EJ03Aa02.html。10月3日アクセス)

 このように、アラブ人や(アラブ人によって)征服されてアラブ化(イスラム化)した人々は、もともと軍人向きではなかった上に、オスマントルコによって軍人になる道を閉ざされていたため、アラブ社会の軍事音痴ぶりはここに極まり、アラブ諸国が宗主国から「独立」してから軍隊がいわば促成栽培されることになったものの、これらの軍隊は見てくれはともかく、内実の伴わないものばかりでした(注5)。

 (注5)イスラエルとの累次のパレスティナ戦争におけるアラブ諸国の毎度のみじめな敗戦や、二度にわたる湾岸戦争でのイラク軍のもろさを思い出してほしい。これに比べて、最終的には敗北したとは言え、第一次世界大戦初期におけるオスマントルコ軍の奮戦ぶり・・メソポタミアの戦い(Mesopotamia Campaign)でイラクに侵攻した英印軍を一旦は殲滅したり、ガリポリの戦い(Gallipoli Campaign)でアナトリア半島に上陸した英豪仏の大軍と互角以上に戦って撃退したりした(http://www.bbc.co.uk/history/war/wwone/middle_east_01.shtml以下。10月8日アクセス)・・、更にはアタチュルク率いる旧オスマントルコ軍による大戦終了後の領域保全を目的としたアルメニア・仏・ギリシャ軍との見事な戦いぶり(コラム#164及び『本』PP364)は特筆される。

このため、トルコでは特にそうなのですが、一般に発展途上国においては軍隊が近代化の担い手になるケースが多いというのに、アラブ諸国では軍隊がそのような役割を果たすことがないどころか、むしろ近代化の阻害要因となったのです。

(続く)