太田述正コラム#6307(2013.7.4)
<皆さんとディスカッション(続x1950)>
<太田>(ツイッターより)
 「富士山が世界文化遺産になった理由 日本人専門家が語る…日本人は富士山を聖山として見ており、…人と自然が信仰や芸術を通して共生する独特の現象を形成した…」
http://j.peopledaily.com.cn/94473/8309168.html
 富士山は人間主義の象徴だってことね。
 人民網はいい仕事をするな。
 父国王の譲位に伴いベルギーの新国王に就任することになったフィリップ公(1960年~)は、ベルギー士官学校(統合)卒、オックスフォードを経てスタンフォードで政治学修士を取得した・・私の後背!・・戦闘機操縦士、空挺要員、コマンド要員資格を持つ中将なんだね。
 ベルギー分裂を回避できるか?
 エジプト軍部によるモルシ大統領の解任・軟禁は、同国における民主主義の時期尚早性を物語るものだが、軍部がこれはクーデタじゃないと言い繕ってるのは、クーデタだと米国が自動的に軍事援助を打ち切らざるをえなくなっちゃうからみたいね。
http://edition.cnn.com/2013/07/03/world/meast/egypt-protests/index.html?hpt=hp_t1
<太田>
 埃及の旧宗主国英国のガーディアンは、軍部を非難するトーン。このコラムもそうだ。
 まことにもってお説の通り。↓
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2013/jul/03/egypt-coup-ruinous-army
 埃及の新宗主国とまでは言えなくとも、スポンサー米国のロサンゼルスタイムスは、モルシ/イスラム同朋会を非難するトーン。↓
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-super-egypt-morsi-coup-20130703,0,4380515,print.story
 どっちも間違い。
 ボクの見立てだが、何度も繰り返してるように、民主主義を維持できるだけエジプトの人々が政治的に成熟していないってことに尽きる。
<3BLSWoEg>(「たった一人の反乱(避難所)」より)>>380
 <eNPvX4Hkクン(コラム#6305)、>つまり
1、仏教の最高の到達点を極めた人は利他主義者(他=人間以外の生命も含む)である。
2,仏教では凡人の教徒もその域を理想的な模範とするように推奨している。
という2つの含意がある説話ということですよね。
<6Xj9qK4I>(同上)
 仏教を利他主義的と考えたり、釈迦の禁欲的な一面を見て、人間主義と対極にあるものと考えるのは、無理からぬことだと思うね。
 ただ、「輪廻」も方便の可能性が高いというのはショックやったわ。コラム#6301参照
<UeyIF8eo>(同上)
 <3BLSWoEgクン、>まず、経済学の公共財という概念を思い出して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E8%B2%A1
 自分の私的財(時として身体を含む)を捧げるといっても、他者の私的財として提供する場合と、公共財として提供する場合があります。虎の話は釈迦の前世が自分の身を(準)公共財とし、公共財を利用して再生(輪廻)したというのが私の解釈で、これを単に利他主義とすることに違和感があるのですが。
<16eGyAxc>(同上)
 その考えだと輪廻転生することが価値あることであるかのように思えますが、一般的な仏教の解釈では輪廻の輪に囚われている状態は一切が苦であるからすみやかにその輪から離脱すべきであり、輪廻からの解脱にこそ価値があるとされているはずです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB#.E4.BB.8F.E6.95.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E8.BC.AA.E5.BB.BB
 インドでは仏教以前の古来から輪廻転生を含む世界観が常識として根深く浸透していたので、釈迦としては当時のあらゆる常識にとらわれている弟子たちに対して、自分が発見した非常識な真実をなんとか理解してもらい受け入れてもらう必要上、当時の常識的知識である輪廻転生の概念を教義に絡めて説明したほうが手っ取り早かったからそうしただけなのでは、というのが私の解釈です。
 つまり輪廻転生なんて仏教の本当に大切な部分ではないと思います。
<UeyIF8eo>(同上)
 輪廻は公共財を説明するための方便です。
 逆に聞きたいんだけれど、仏教で公共財を否定してるの?
<16eGyAxc>(同上)
>仏教で公共財を否定してるの?
 すいません。
 そこを詳しく調べたことはないですが特に否定はしてないんじゃないでしょうか?
 ただ、飢えたトラを憐れんで自分の体を食べさせる行為は、トラという個体を救うための純粋な利他行為ではないでしょうか。
 食材としてその場で消費されてしまうのですから公共財の概念には当たらないでしょう。
 ついでに言えば確実に自分は死ぬわけですし、巡り巡って自分に利益が帰ってくることを期待しての行為でもないはずなので、人間主義とも関係がないと思います。
<UeyIF8eo>(同上)
 おっしゃりたいことはわかります。
 ただし、私の解釈では輪廻(方便であっても)を通して公共財の利用は否定していない、すなわち、単なる利他主義ではないという見解です。(あくまで私の解釈です。)
 私の拙い理解では、仏教と太田さんの人間主義は共に公共財の重要性を説いているように思うんですね(もちろんそれがすべてではないでしょうが)。
 ところが、あなたは、仏教は利他主義だと言ってこられる。
 私の立場では、仏教が利他主義で人間主義とは異なると言うのであれば、仏典等で公共財(特に公共財の利用)を否定してる点を挙げてほしいということです。
<16eGyAxc>(同上)
 つまり、その場限りの食材として自身を提供したという解釈ではなく、輪廻を繰り返すことで何度でも無限にリサイクルされる減ることのない資源の一部をたまたまトラに分け与えただけ、という解釈でしょうか?
 上のほうでも書いたつもりですが、そういう考え方は輪廻を肯定的に受け入れることが前提になっていると思いますので、輪廻からの解脱を目標としている仏教とは価値観が違うのではないかというのが私の勝手な解釈です。
<UeyIF8eo>(同上)
 (太田コラムでの)集団的自衛権を行使する
≒自衛隊を世界の公共財にする
≒自衛隊員の命を世界の公共財にする
です。(典拠略)
 独立して、PKO等で自衛隊員が亡くなったとします。
 亡くなられた自衛隊員の方が輪廻しようがしまいが、自衛隊・自衛隊員の命は世界の公共財だと言える自分でありたいというのが私の考え方です。
 ですから、虎の逸話も私には公共財の話です。
 (輪廻するかしないかが重要なのではなく、輪廻という考え方で公共財であったこを暗示しようとしている、と私には読めるわけです。)
 あなたは、上記の様なことを、利他主義と呼ぶ方なのでしょう。
<16eGyAxc>(同上)
 輪廻が実在しようがしまいがそんなことに執着せず、苦しんでいるトラを見たら憐れと思って自分の立場など二の次にしてでも助けてあげたくなるのが仏教的な生き方である、という逸話だと私には思われます。
 なので、自分や自分の味方の利益を死守するために敵と戦う集団的自衛という発想自体が仏教的な生き方ではないと思います。
 おそらく仏教的な生き方を貫くなら、敵味方の区別無く安全を祈るくらいのレベルになるのではないでしょうか。
 それは巡り巡って自分の利益となることを期待している人間主義的発想とも違い、自分のことにこだわらないのですから利他主義というべきでしょう。
<UeyIF8eo>(同上)
>苦しんでいるトラを見たら憐れと思って自分の立場など二の次にしてでも助けてあげたくなるのが仏教的な生き方である、という逸話だと私には思われます。
 これと人間主義とほとんど同じだよ。(私の人間主義の理解が正しければだけど。)
>自分や自分の味方の利益を死守するために敵と戦う集団的自衛
集団的自衛(権)というのは太田コラムでは違います。ご自分でお調べになってみて
下さい。
>それは巡り巡って自分の利益となることを期待している人間主義的発想とも違い
 人間主義的ニンゲンだって、人間主義的行動を取るとき「巡り巡って・・・」とは考えていないと思いますよ。
 ですから、あなたの考え方だと人間主義も利他主義の一種だと言えてしまいます。
 「巡り巡って・・・」と言うのは、人間主義を広めるための”方便”ぐらいに思っていた方がいいと思いますよ。
 人間主義的に振る舞うと、死んじゃったり、属国民になっちゃたりすることもあるわけですから。
<T6XZActM>(同上)
 虎の話自体を利他主義と捉えることは、間違いではない。
 ただ、杓子定規に考えることは、問題があるのよ。
 そもそも、この話は説話であって恐らくは作り話なの。
 釈迦は、安らかに死んだけど、別に虎の前に身を投げ出して死んだわけではないでしょ。
 どうせ、もうすぐ死ぬのなら、虎の前に身を投げ出してもいいはずなのに、お釈迦様でも、そこまではやってないのよ。
 だから、この話は、極限の理想の世界と捉えるべきであって、むしろ、虎のような猛獣にさえ、同じ生命としての共感を持ちなさいという逸話にすぎないのよ。
 太田さんは、こういう心性こそが、安らかに生きる秘訣であり、仏教の本源だと考えていているわけで、これは取りも直さず、人間主義そのままだと指摘しているわけ。
 利他主義そのものを、否定しているわけではないと思うよ。
<太田>
 興味深い議論だが、ボクに言わせりゃ、諸君の議論の大前提が間違ってるぞ。
 昨日、随分説明したつもりだけど、捨身飼虎の説話、ひいてはジャータカについての諸君の認識はちゃうんでは?
 昨日URLを付けといたジャータカの紹介
http://buddha-osie.com/tale/index.html
を読んで欲しい。
 そこにも兎の説話も併せて載ってるだろ。
 そっちの方は、自ら丸焼きになろうとした兎(前世の釈迦)が実際には丸焼きにならなかった上に、精神的なご褒美も得たわけだよね。
 利他主義的な捨身飼虎の説話が単独で取り上げられることはないんじゃないのってこと。
 この二つの説話を両方聞かされれば、自ら虎に食われたとされる人(同じく前世の釈迦)だって、ひょっとして実際には食われることなく、或いは食われても食われた時の苦痛を忘れた形で生き返り、その上精神的なご褒美も得たんじゃないか、と思うんじゃないか。
 たまたまそのブログの筆者が二つセットで取り上げただけだろうって?
 じゃ、もう一つ、より「権威」のあるケースをあげとこう。
 法隆寺の有名な玉虫厨子には、ジャータカからは捨身飼虎の図とともに雪山童子の図・・雪山童子(釈迦の前世)が、「羅刹(鬼)の唱えている偈(仏の教え) を聞きつけ、続きの偈を得るため自らが羅刹の餌食となることを約束し残りの偈を得・・・得た教えを後生のために岩盤に書き写し、崖から身を投げ出したところ、羅刹が帝釈天(仏法守護の主神) に姿を変え落下する雪山童子を両手で受け止め・・・た」という説話・・も描かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%99%AB%E5%8E%A8%E5%AD%90
http://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi/pictures.html (「」内)
 雪山童子は、結局、鬼の餌食にならなかったし、仏の教えというご褒美も得ちゃったわけだ。
 つまり、ジャータカというのは、全体として、自分の命すら犠牲にするくらいの決意を持って、自然・・(人間を含む)生き物を含む・・のため、奉仕をしなさい、そうすれば、回りまわってきっと、来世ならぬこの現世において、オツリが来るくらいいいことが自分の身の上に起こるよ、ということ、すなわち人間主義、を教えようとしているのさ。
<Ckk87GpG0>(「たった一人の反乱」より)
≫私の立論のもう一つの重要な柱は、瞑想/座禅の効用の脳科学的説明・・人間主義的境地に至る・・だ。≪(コラム6305。太田)
 「人間主義的境地に至る」という文言が入っている以上、立論の柱が『狩猟採集社会時代の記憶・遺伝子…』一本槍であることは変わらないですね。
 瞑想/座禅は『狩猟採集社会時代』に還るという目的のための手段の一つに過ぎないわけですから。
≫その上で、「経典」に書かれていることで、方便として読んでもどうしても私による人間主義的説明と相容れないくだりがあると言うんなら、キミの方でそのくだりと私による人間主義的説明の双方を引用した上で、具体的にこことここって指摘しなくっちゃダメじゃん。≪(同上)
 <コラム#6301>で「4662,4707,4768等で…」と書いているので引用の一つは(詳細な指摘はしていませんが)しています。
 原始経典を読んだことの確認をしたのは、原始経典(スッタニパータ)を引用先とできるかの確認をしたためなので、もう一つの引用もしています。(スッタニパータを読めば分かりますが、内容は色々といえど、基本の論調は、一切の執着の滅却を、これでもかというほど、繰り返して説いています。)
 だから双方ともに一応引用はしているのですが、コラム4707から詳細な引用をします。
 「座禅とは、狩猟採集時代の自分、つまりは本来の自分、換言すれば、外界(自然及び他人)と一体であった自分、恒常的ストレスと無縁であった自分、を再発見するための営みであり、座禅に習熟すれば、(人間主義的に行動するようになるとともに、)精神的肉体的疾患が軽減されたり精神的肉体的疾患に罹りにくくなる。」
 ↑この引用について二つの疑問を提示します。(2は付随的なものに過ぎません)
1.欲望が「一切」無くなることと、世界と一体であった(という昔に還る)ことが、何故同じ状態だと断言できるのか。
2.狩猟採集時代に人間が「外界と一体」であったとまで証明している科学的データがあるのかどうか。
 ちなみに、太田コラムにおいては、瞑想/座禅をすることで集中力や処理能力が向上したり心が平静になったり欲望が減少したりといったことは科学的データの典拠とともに示されていますが、「狩猟採集時代に還る」効能があるというデータを示す典拠はまだ無いと思います。
 それと、経典の基本論調まで方便としてしまうのは、よほどの理論武装をしないと、文献学を蔑ろにすることになりませんか?
 以上でーす。
<UeyIF8eo>(同上)
 こちらも”公共財”の概念を使ってみます。
1について
 欲望が一切なくなること≒この世の一切は公共財
 世界と一体である≒世界は公共財、自分も公共財
 したがって、
 欲望が一切なくなること≒世界と一体である
2について
 狩猟採集時代は、ほぼすべてが公共財でした。
 おわり。
<太田>
 UeyIF8eoクンの方便はなかなか秀逸であるね。
 さて、Ckk87GpG0クン、相変わらず具体性のない質問を繰り返すばかりなので、ボクもざっくりした答え方をすることにしよう。
 昨夜、『ブッダのことば–スッタニパータ–』を、ウン十年前に傍線を引いた所だけ斜め読みしてみたけど、キミは「煩悩の超越」について、それを、悟るための方法論と受け止めてる・・だから、タイヘンだー、自分にゃとてもできねー、と恐惶をきたしてる・・ようだが、それを、悟った状態の説明、と受け止めてみたらどうかな。
 前者のように受け止めるのが小乗、後者のように受け止めるのが大乗、ということになりそうじゃん。
 小乗的に受け止めると、そんな方法でみんなが悟りを求めたとすると、釈迦ですら悟るのに6~7年かかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
んだから、釈迦の場合と違って今ではプロの僧侶の指導を受けられるとは言っても、凡愚なら10年じゃ悟られないんだろってんで、全員が悟りを求めたら社会活動が停止して社会が崩壊しちゃう。
 だから、タイのように、青年期を徴兵ならぬ坊さんになることでその間だけ悟りを求めさせるという便法を使うか、その他の地域のように、悟りを求めるのはプロの僧侶に任せて、その他の人々はプロの僧侶や寺院にお布施をして現世利益を受けることを期待するという役割分担にするかってことになりがちだ。
 それに対し、大乗的に受け止めると、悟りの方法は、他力、自力を始めとして色々ありうる、ということになり、多くの宗派が競い合うことになる。
 その中にあって、日本の仏教各派は、切磋琢磨しあい、芸術を提供する、という悟りの方法論を完成させた、と言っていいんじゃないか。
 昨日の未公開コラム(#6306)で、コラム#6301で列挙したものに新たに華道を付け加えたが、茶道もそうだな。(注)
(注)「鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。・・・<やがて、>「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになる。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。・・・<こうして、>現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%81%93
<jWXqUmQo>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
≫しかし、これからの人類は日本と邂逅し、日本の影響を受けて変容しなければ…なぜなら人類は史上初めて、自然にこれ以上負荷をかけられない時代に突入しつつあるからだ≪(コラム#2372。太田)
 そうであるならば、日本語でなく英語でコラムを書いた方が影響を及ぼせるのでは?
<太田>
 日本の「独立」を最優先してるから、そっちまで手が回らないよ。
<doGeznLT0>(「たった一人の反乱」より)
 9条=アメリカには楯突きません
 だから、まだまだいじれないでしょう。
<3we9pXk30>(同上)
 9条=アメリカに依存します
じゃね?
 アメリカの本心知りながら、あくまで安全保障を担う事から逃げまわってるんだし。
<ねこ魔人>
 ・・・<関西>オフ会に参加させていただきたいと思います。
 よろしくお願いします。
 質問させていただきたいことは、以下に記させていただきました。
・現在<私が通っている>大学では、吉田ドクトリンに基づく授業が依然として主流ですが、如何にして、大学の教育レベルで正しい安全保障政策を説き、日本の「独立」を促 進させていけばよいのでしょうか?
・太田さんは日本の法学が学問の体を成しておらず、したがいまして法学部卒業者は短大卒であるとおっしゃっておりますが、マグナカルタが憲法(もしくは憲法法?)であるが如く、17条憲法や5か条のご誓文といった過去の法律を法源として捉え直し、日本の法体系を演繹的手法ではなく帰納的手法で再構成することで、また心理学、ゲーム理論などを応用することで、法学を社会科学として成立させる余地は残されておりませんか?(個人的には、憲法(憲法法?)にはその余地があると思っております。民法は難しい気がします)
・太田さんは将来的に、日本の議会制度は2大政党制から 脱政党制となることを予言されております。しかし、大政翼賛会のように1つの機関に全議員が所属し、大政翼賛会のように政策を掲げず、したがいまして 党議拘束も存在しない状態では、中選挙区制度が採用されていた時代の自民党政権のように、首相に充分な指導力が確保されなくなってしまいませんか?
 以上、質問を書かせていただきました。当日はよろしくお願いいたします。
<太田>
 ヨコ(欧米の理論)のものをタテにする(翻訳する)ことに依然汲々としているという状態に、日本の(法学を含む)社会科学界がある、ということは事実ですが、私が法学部卒=短大卒、と言っているのは、論文を書かなくても学位が与えられる(=学問的訓練を受けないで卒業できる)点についてですよ。
 後者の議会制/政党の問題については、オフ会での討論テーマの一つにしてもいいかもしれませんね。
 関西オフ会参加ご希望の方は下掲から!
http://www.ohtan.net/meeting/
 それでは、その他の記事の紹介です。
 ボクは、かねてより、カナダと比較することで、米独立革命は何の意味もない愚行であったと指摘してきたところだが、まさにそれをカナダ人がやったコラムを発見。
 (引用しなかったが、このコラム、最後を「あの超人種主義者の」ジェファーソンの「金言」で締めくくられているところを見ると、このカナダ人の米国についての知識のほどが知れるが・・。)↓
 米国は自由と幸福の増進を掲げて独立したが、奴隷制を維持したが、カナダでは1812年の英米戦争の約20年前に奴隷解放を始め、この戦争では解放奴隷が多数英国側に立って米国と戦った。
 南北戦争でようやく米国はこの独立以来の課題にケリを付けたが、この時の戦死者も考えれば、米独立革命は実に高くついたことになる。
 自由と言えば、人口当たり囚人数で米国は世界一だがカナダは136位で、しかも黒人の囚人割合は白人の6倍ってことは、独立以来の課題にいまだにケリを付けられないでいることを示している。
 幸福と言えば、平均寿命は米国が世界51位なのにカナダは14位。(豪州は12位だ。)
 幸福度調査では10位だが、これもカナダ、豪州より低い。
 結論:米独立革命は失敗(flop)だった。
http://www.washingtonpost.com/opinions/the-american-revolution-was-a-flop/2013/07/03/fd077db0-e02b-11e2-b2d4-ea6d8f477a01_story.html?hpid=z3
—————————————————————————————————————————————————-
太田述正コラム#6308(2013.7.4)
<世俗化をもたらした宗教改革?(その4)>
→非公開