太田述正コラム#6218(2013.5.20)
<中共の資本主義化の軌跡(その6)>(2013.9.4公開)
3 補遺
 (1)トップダウンかボトムアップか
 「著者達は、過去30年にわたる中共の劇的な経済成長は、北京の党指導者達によって工作された(engineered)トップダウンの過程ではないことを論証する。
 そうではなくて、中共の興隆は、著者達の言うところの、「4つの限界諸革命」によって駆動されたボトムアップの過程だったと。・・・
 政治指導部の力ないし遍在によってではなく、政府の経済からの漸次的撤退…が成功した理由なのだ、と。」(A)
→そうではなくて、トップダウンで行われた、トップダウンとボトムアップを組み合わせた経済体制・・日本型経済体制・・導入が劇的な経済成長をもたらした、というのが私の見方であるわけです。(太田)
 (2)トウ小平革命の前半(陳雲)
 「1978年末に<中国共産党>中央委員会は会議を開き、トウ小平と陳雲(Chen Yun)<(注13)(コラム#765、5139、6194)>が復権し、華国鋒はもはや中心的存在ではなくなった。
 (注13)1905~95年。「翌1979年には国務院副総理に任命される。1981年、・・・「計画経済を主とし、市場調節を補助とするべきである」と主張。翌1982年には、計画経済を籠、市場を鳥に例え、「市場は計画の枠内に閉じ込める」とした鳥篭理論を打ち出す。1985年にも計画経済と市場調節を再度主張した。陳は保守派重鎮として、改革開放論者の鄧小平と対峙するようになる。1987年、<トウ>小平と共に政治局常務委員を退き、党中央顧問委員会主任となるが、当時ハイパーインフレが加速していたため、改革派から保守派に経済政策の主導権が移る。とくに<トウ>小平が後継者と定めた胡耀邦と趙紫陽が相次いで失脚したのは改革開放の行き過ぎが原因とされ、<トウ>小平が保守派に配慮するとことによって、陳雲の存在感が増していった。しかし、第2次天安門事件、東西ドイツ統一、ソ連崩壊などで共産党政権の正当性に危機感を覚え、保守化に傾斜していた江沢民政権に対して不満を募らせていた<トウ>小平が、1992年の旧正月に行った南巡講話の中で陳雲ら保守派を批判。この講話が全党へ伝達されると一気に形勢は逆転し、改革開放路線が再活性化すると、陳雲は「過去に有効だった方法は既に適用できなくなった」と自身の誤りを認めるにいたった。1992年10月、第14回党大会における党規約改正で中央顧問委員会が廃止され、陳雲は引退した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%9B%B2
 陳雲は、中共の経済問題の最高責任者だった。
 彼は、1953年の、中共の最初の5か年計画の構築者であり、計画経済の強い信奉者だった。
 彼は、革命家になる前、上海で育ち、当地で徒弟奉公をしたことから、社会主義下における私的部門について、限定的ではあるけれど枢要な役割を見出していた。
 陳雲は、1958年に毛沢東が大躍進政策を始めると、それに反対し、失脚した。
 彼は、1978年末にトウ小平とともに復権し、経済改革計画の設計という仕事を与えられた。・・・
 彼の見解では、重工業に焦点をあてた華国鋒の経済計画は、中共経済をより悪化させた。
 だから、陳雲は、国務院(State Council)の強い反対を押し切って「洋躍進(the Leap Outward)<(注14)>」政策を終わらせたのだ。・・・
 (注14)「文革終結後の1978年、華国鋒国家主席の指導の下、<欧米>の資本や技術を積極的に導入して、近代的社会主義国家建設を推進しようとした政策がとられた。「洋躍進」とは、毛沢東の「大躍進」の失敗になぞらえて、華の政策を揶揄、批判して言った表現。「洋」とは近代<欧米>の技術や文物を表わす言葉で、<支那>の伝統や土着、在来の文物をさす「土」の対概念。」
http://books.google.co.jp/books?id=YVnYVoEncIAC&pg=PA1228&lpg=PA1228&dq=%E6%B4%8B%E8%BA%8D%E9%80%B2&source=bl&ots=n8oRgqa-gp&sig=z4JGfgBJ-TobATZh49mf4CznUu8&hl=ja&sa=X&ei=ePmZUffnAdCtkgXm_oH4CA&ved=0CEAQ6AEwAg#v=onepage&q=%E6%B4%8B%E8%BA%8D%E9%80%B2&f=false
 今回の国家主導の改革は二つの部分から成り立っていた。
 マクロレベルでの調整とミクロレベルの国有企業改革の二つだ。
 構造的調整が経済全体に課された。
 例えば、より多くの投資が、資本財生産よりも消費財生産に投入された。
 <また、>より多くの資金が農業に配分された。
 政府は、1979年に農業製品の買い上げ価格を20%を超えて引き上げるとともに、穀物輸入を顕著に増やした。
 北京政府は、また、外国貿易を分権化し、地方諸政府に、より大きな財政的自主権を与えた。
 ミクロレベルでは、社会主義の経済的基盤と見られていた国有諸企業に、正面切って重点が置かれた。
 この戦略は、国有諸企業に幾ばくかの諸権利を譲り渡し、これら企業が幾ばくかの利益を留保することを認めた。
 1979年から開始され、1980年代を通じて、中共政府は、国有諸企業にインセンティヴを与えることに大童だった。」(G)
→このようにして、日本型経済体制化の端緒が切られた、ということです。(太田)
(続く)