太田述正コラム#6244(2013.6.2)
<パナイ号事件(その4)>(2013.9.17公開)
 「12月12日のこの日は、パナイ号の安否をめぐって、南京–漢口<(注9)>–ワシントン–東京の間を電波が慌ただしく行き交・・・<った。>
 まず、揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍総司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。
 (注9)「中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。・・・漢口は、もとは夏口鎮という商業都市であった。夏水という川が長江に合流する場所にある・・・隣接する歴史の古い城郭都市である漢陽と武昌に比べると、漢口は明朝中頃以後に自然発生した都市であり歴史は比較的浅い・・・1858年に結ばれた天津条約により開港し、イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5カ国の租界が置かれた。・・・長江と漢水を挟んで鼎立する漢陽・漢口・武昌の3市(鎮)は武漢三鎮と呼ばれていたが、互いに大河で隔てられており連絡が不便であったため合一することはなかった。中華民国期の1927年1月に初めて武漢市となり、[中国国民党左派の汪兆銘政権]・・・が広州から遷都し、4月には武漢特別市となった。8月に武漢国民政府が南京国民政府に合流すると、再び分割され漢口特別市となった。・・・[日中戦争により1938年には蒋介石の南京政府が武漢に仮の首都を置いた(皮肉にもその後、1927年とは逆に日本軍に推された汪兆銘により南京に傀儡政権が樹立される)。その後日本軍に押される形でさらに重慶に移った。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%8F%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E5%B8%82([]内)
 パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上海への移動を余儀なくされた。ジャップはパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じられる。午前9時に、イギリス砲艦レディーバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負傷した。イギリス砲艦ピー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。
 漢口<に避難していた>ジョンソン・アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措置をとるよう要請してきた。これを受けて駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グルーは、広田弘毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず砲撃するようにと命令されているというが、もしも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止するよう手段を講じなければ、アメリカ市民も巻き込む深刻で悲しむべき事件が起こるであろう」と警告した。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難するように警告されているはずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう」と述べただけだった。」(27~28)
→著者は「対応は事務的」と書いていますが、この時点では広田は当然の対応をした、と言うべきでしょう。
 むしろ、その後、どうして日本政府の対応が、責任を認める姿勢へと切り替わったかを著者は追求すべきなのですが、ここまで読んだ限りでは、著者は、最初から日本が悪で米英が善という観念に憑りつかれている感があり、それを期待するだけ野暮というものです。
 ところで、これまた著者が見過ごしてしまっていますが、揚子江警備隊司令官の文章中に「ジャップ」(注10)という日本人の蔑称が二度も登場しています。
 (注10)「1900年にロンドンに留学中の夏目漱石が”Jap”と呼ばれて失敬と受け取る記述があり(倫敦消息)、当時すでに蔑称と認識されていたことがわかる。米国でも明治以後、日本人移民の増加とともに現地住民との摩擦が生じ、1930年代の日系移民排斥の風潮とともに蔑称の意味合いが強くなり、第二次世界大戦当時には反日プロパガンダに盛んに使用されたため、蔑称として定着した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97
 上官への公式電報の中でこの蔑称を使っていたのですから、当時、少なくとも米軍人達が、いかに日本や日本人を見下していたかが推察できるというものです。
 それにしても、解せない点があります。
 「パナイ号は・・・南京<から>・・・脱出する外国人を乗せて戦火を避けて揚子江を航行していた<が>、・・・揚子江上(南京上流約45km)において・・・攻撃を受けた」(パナイ号ウィキ)ところ、揚子江警備隊司令官は、「パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上海への移動を余儀なくされた」と言っていることです。
 一体、パナイ号が「再び」砲火の危険にさらされたのはどこで、それは誰の砲火だったのでしょうか(ひょっとして蒋介石軍?)、また、このことと関連しますが、日本軍が上海方面から南京方面、更には南京以遠の揚子江上流方面に向けて進撃していたというのに、どうして、パナイ号は、上流への逃避行を続けることを断念し、下流、すなわち、日本軍が進撃してくる方向に反転し、攻撃を受けた時点で南京上流45km地点にいたのでしょうか。
 英語電文を翻訳する際にミスがあったのかもしれませんが、著者がこれらの点に全く無頓着なことは理解に苦しみます。(太田)
「13日午前11時に・・・支那方面艦隊司令部・・・の参謀長杉山六蔵少将が中国駐留米軍総司令部のある米艦隊旗艦オーガスタを訪れて報告と陳謝を行い、同じ頃・・・上海の岡本総領事は、ただちにアメリカ総領事に対して報告を行い、遺憾の意を表明した。さらに午後には長谷川司令長官みずからアメリカ・アジア艦隊司令長官ヤーネル提督を訪問、謝罪と遺憾の意を表すとともに、長江における艦船の爆撃を禁止する処置をとること、生存者の救助を援助することを約束した。・・・
 パナイ号撃沈事件をめぐって、当時の日本政府・海軍は日本海軍機が米国旗を目撃できずに中国船と「誤認」したために爆撃したと主張し、現在でも日本の歴史書では「誤爆」説がほぼ通説とされている。
 しかし、アメリカでは発生当時から「故意爆撃」と信じられ、「パナイ号を忘れるな!”Remember the Panai!”」が叫ばれた。現在でも真珠湾攻撃と共通性をもつ不意打ちという認識がもたれている。」(47~48)
→一夜明けると、外務省も帝国海軍も、「誤爆」であったとして責任を認める発言を行うに至ったわけです。
 前日12日に橋本陸軍大佐が英海軍のビー号の参謀長に対して「誤射撃」であったとして責任を認める発言を行ったのは、現場指揮官の独断であった可能性が大ですが、今度のものは、まず間違いなく、日本政府上層部の意向を受けたところの、足並みを揃えた公式発言であり、前日の広田外相の姿勢からすれば、180度の方針転換です。
 繰り返しますが、この間に何があったのか、私ならこの点を究明しようとしたはずです。(太田)
(続く)