太田述正コラム#6246(2013.6.3)
<近世欧州の実相(その1)>(2013.9.18公開)
1 始めに
 パナイ号シリーズの途中ですが、ラウロ・マルティネス(Lauro Martines)の ‘Furies: War in Europe, 1450-1700’ のさわりを、書評類をもとにシリーズでご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 WSJで紹介されてから、他の米英主要メディアで紹介されるのを待っていたのですが、いつまで経っても紹介されないので、諦めて、余り遅くなり過ぎないうちに、と思った次第です。
A:http://online.wsj.com/article/SB10001424127887324590904578289022347679206.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(2月13日アクセス。以下同じ)
B:http://www.publishersweekly.com/978-1-60819-609-8
(6月2日アクセス)
C:http://tufts.uloop.com/news/view.php/77447/furies-war-in-europe-1450-1700-by-lauro-martines
D:http://www.openlettersmonthly.com/book-review-furies/
E:http://www.torontopubliclibrary.ca/detail.jsp?Entt=RDM2949206&R=2949206
F:http://p.washingtontimes.com/news/2013/apr/17/book-review-furies/
G:http://blogs.roanoke.com/backcover/2013/02/book-review-furies/
H:http://citybookreview.com/furies-war-in-europe-1450-1700/
 なお、マルティネスは、米カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)の歴史学の名誉教授です。(A)
2 近世欧州の実相
 (1)挿話とメンタリティー
 「著者は、物語に目撃証人達による説明を混ぜる。
 例えば、著名な数学者のニコロ・タルタリア(Niccolo Tartaglia)<(注1)>の、北イタリアのブレシア(Brescia)の掠奪(sack)の回想だ。
 (注1)1499/1500~1557年。「数学者、工学者、測量士で、ヴェネツィア共和国の簿記係だった。彼は、アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し・・・た。タルタリアは、初めて数学を用いて大砲の弾道の計算を行った。[タルタリアが三次方程式の代数的解法を知っていると聞いたカルダノはタルタリアに頼み込み、三次方程式の代数的解法を聞き出すことに成功した。カルダノは、弟子のルドヴィコ・フェラーリが得た、一般的な四次方程式の代数的解法とあわせて、三次方程式の代数的解法を出版したいと考えるようになったが、タルタリアとの約束で秘密にすると誓ったために、出版することはできなかった。・・・<しかし、>カルダノは、タルタリアが三次方程式を解いた最初の人ではないことを知ったので、タルタリアとの約束は無効とし1545年に ・・・様々な形の三次方程式の解法を公表した。以来、三次方程式の解法はカルダノの方法と呼ばれるようになった。この事はタルタリアを激怒させ論争に発展したが、カルダノは<解法公表の際、>・・・タルタリアの功績について<も>賞賛しており、独自の方法と偽ったわけではない。また、タルタリアから解の導出方法までは聞いておらず、色々な形の三次方程式について解を表した事はカルダノ自身の業績である。]・・・<タルタリアは、>4つの頂点の間の距離を用いて三角錐の体積を表すタルタリアの公式を考案したことでも知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AC%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F ([]内)
 フランス軍の兵士達がブレシア(Brescia)<(注2)>の教会堂にいたタルタリアを襲った<(注3)>のは、彼がわずか12歳の時だった。
 (注2)「568年(または569年)、ブレシアはランゴバルド王国の支配下に入った。その後、774年にフランク王国のカール大帝に征服された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%82%A2
 「アルプス山脈の山麓とアペニン山脈にはさまれ、東西に長く延びる・・・ポー平原・・・の北側」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E5%B9%B3%E5%8E%9F
に位置する。
 (注3)「ラヴェンナの戦い(・・・伊:Battaglia di Ravenna, 仏:Bataille de Ravenne)<。>カンブレー同盟戦争の一環として1512年に発生したフランス軍と神聖同盟軍との戦い」の一局面。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 なお、ラヴェンナの戦いは、(1508年からフランス、教皇国、スペインと戦い、1509年に、一旦敗れたヴェネツィアが、教皇国、スペイン、ヴェネツィアによる対フランス神聖同盟をまとめ上げた後、今度は、)フランス軍と神聖同盟軍が戦ったもの。
 ちなみに、上記諸戦争から始まり1516年まで続いた一連の戦争は、カンブレー同盟戦争と呼ばれており、それは、更に大きくは「イタリア戦争」に含まれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%88%A6%E4%BA%89
 「母親の目の前で、私は5つの大きな傷を受けた。
 うち3つが頭への傷であり、全て脳が露出した。
 また、うち2つが顔への傷であり、現在のように髭で隠すことができなかったら、私は怪物のように見えることだろう。」
 医者にかかるカネがなかったので、彼の母親は、「犬の例をマネして、舌で舐めて治してくれた。」」(A)
 「ニコロ・タルタリアは恐るべき聡明な人物だった。
 彼は、生涯で家庭教師から14日間、読む教育を受けただけだった。
 それでいて、彼はユークリッドの「原論」を日常用語に翻訳した最初のイタリア人となったのだ。」(D)
 「フランス宗教戦争<(注4)>においては、ユグノーの牧師であるジャン・ド・レリ(Jean de Lery)<(注5)>は、1572~73年にカトリックの攻囲を受けたプロテスタントの拠点たるサンセールの攻囲(siege of Sancerre)<(注6)>の報告を行っている。
 (注4)1562~98年にかけての、フランスのカトリックとユグノー(プロテスタント)の間の戦いであり、ブルボン家とギーズ家(ロレーヌ家)の間の戦いと重なった。1598年のナントの勅令(Edict of Nantes)によって、一応の終結を見た。
http://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion
 (注5)1536~1613年。フランスの探検家、著述家たる牧師。宗教の自由を求めてのブラジルへの入植に失敗し帰国。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_de_L%C3%A9ry
 (注6)1572~73年に8か月近く、ユグノー達が、中仏の丘上の要塞都市のサンセールに籠城して国王のカトリック軍に抵抗し、停戦まで持ちこたえた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Sancerre
 その中には、48時間水に漬けた後、ナイフで削り取り、柔らかくなるまで煮る、という太鼓の革茹でのレシピも含まれている。
 柔らかさを見るためには、「表面を指でひっかき、粘着性があるかどうか確かめる」と。
 次いで切り刻み、その全体にハーブとスパイスで味付けする、と。
 この牧師は、更に、腸がかき回されるような詳細さで人肉食の事例を記録している。
 同様の絶望的な気持ちで、1590年のパリの攻囲の間、スペインの大使は、パリ市民達がイノソン墓地(Holy Innocents’ Cemetery)からの骨を挽いて水と混ぜ、パンの代わりにしたことを示唆している。」(A)
 「1630年の冬に、マントゥア公爵<(注7)>の臣民たるイタリア人村民達の集団が、マントゥアの近郊ではぐれ兵士達(disbanded soldiers)を捕まえた。
 本件についての専門家が伝えるところによれば、彼らはこの捕えられた男達を生きたまま皮を剥ぎ、火で炙り、調理されたところで食べたという。」(D)
 (注7)1530年に神聖ローマ皇帝カール5世によって初めてゴンザガ(Gonzaga)家にマントゥア公爵の称号を授与した。マントゥアはブレシアの近傍。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mantua
 「著者は、苦行(asceticism)と殉教に魅惑されていたことが、当時の宗教的諸紛争の凶暴さを募らせたと主張する。
 聖セバスティアヌス(St. Sebastian)<(注8)>は、その矢による傷をいささか楽しみ過ぎ、また、聖バルトロマイ(St. Bartholomew)<(注9)>が皮を剥がれ十字架につけられたことは、痛みの浄化作用を再確認することに資した。
 (注8)~伝287年。「3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたといわれてきた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。・・・歴史の最も初期のゲイ・アイコン<となった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9
 (注9)イエスの12使徒の一人。アルメニアに布教に赴き、国王を改宗させたが、国王の兄弟に処刑されたとされる。首を跳ねられたという説と、皮を剥がれて逆さまにされて十字架につけられたという説とがある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bartholomew_the_Apostle
 仮に痛みが浄化作用があることを信じたとすると、敵に痛みを与えることは当人のためになることをしたとさえ言えることになる。
 「しかし、戦争における残虐行為の恒久的原因は、宗教的熱情でもなければ、苦行主義の体を痛めつけるという歪んだメッセージでもない」とマルティネス氏は記す。
 「原因は、一般兵士の肉体的精神的状況だったのだ」と。」(A)
(続く)