太田述正コラム#6266(2013.6.13)
<英国等の植民地統治の残虐性>(2013.9.28公開)
1 始めに
 英国政府がケニアのマウマウ団がらみの被害者への謝罪と補償を行うこととなった(コラム#6251)ことにからめて、英国の植民地統治の残虐性・・と言っても、独立直前の残虐行為に限定されている・・に触れたコラムがNYタイムスに載っていた
http://www.nytimes.com/2013/06/13/opinion/atoning-for-the-sins-of-empire.html?ref=opinion&_r=0
ので、その概要を紹介したいと思います。
 なお、このコラム執筆者のデーヴィッド・M・アンダーソン(David M. Anderson)は、英ウァリック(Warwick)大学のアフリカ史の教授(注1)です。
 (注1)どうやら、前職は、オックスフォード大学の講師兼フェローだったようだ。サセックス大学卒、ケンブリッジ大学博士。
http://www.worldwhoswho.com/public/views/entry.html?id=sl2174394
2 英国の植民地統治の残虐性
 「・・・<ケニアの被害者への補償は、>英国政府が受け入れたところの、歴史がらみの最初の補償請求だ。
 旧大英帝国のいかなる場所における拷問についても、英国政府は、これまで<行われたと>認めることはなかった。・・・
 <保存されていた>資料は、本件に係る拷問の責任がトップにあることを示した。
 すなわち、それは、ケニア総督のエヴェリン・ベアリング(Evelyn Baring)<(注2)>によって許可(sanction)され、次いで、英国政府の閣僚たる、ハロルド・マクミラン(Harold Macmillan)の保守党政府の植民地相、アラン・レノックス=ボイド(Alan Lennox-Boyd)<(注3)>によって認められた(authorized)ものだったのだ。・・・
 (注2)Evelyn Baring, 1st Baron Howick of Glendale(1903~73年)。1942~44:南ローデシア総督、1952~59:ケニア総督。
http://en.wikipedia.org/wiki/Evelyn_Baring,_1st_Baron_Howick_of_Glendale
 (注3)Alan Lennox-Boyd, 1st Viscount Boyd of Merton(1904~83年)。オックスフォード大卒。保守党下院議員、弁護士。1954~59:植民地相(首相は、チャーチル→イーデン→マクミラン)。夫人はあのギネスのオーナーの娘であり、この縁でギネス社の社長(managing director)を1959~67年務めている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Lennox-Boyd,_1st_Viscount_Boyd_of_Merton
 どうして、英国はこの資料群を破棄せずに残しておいたのだろうか?
 英国がケニアを去るにあたって、他の大量の資料が焼却されたり海に投棄されたりしたというのに・・。
 その答えは、何人かの英国人植民地官吏達の不安(unease)にあった。
 多くの者は自分達が見たものを好まなかった。
 拷問せよとの命令が下された時、何人かは、自分達の危うい立場に気付いた。
 これらの男達は、責任をとらされる(carry the can)のは、指揮者達ではなく、自分達であることを心配(worry)したのだ。
 彼らの心配は正しかった。
 1950年代からの公式の諸報告書では、虐待諸行為については、「樽の中の腐った林檎」たる個々の官吏達が常に非難されたからだ。
 しかし、非難されるべきは、悪しき政策を遂行するよう強制された位の低い官吏達ではなく、芯から腐っていたところの、植民地政府の上級階層だったのだ。・・・
 <このケニアの件の裁判のほかに、>裁判係属中のものとして、現在マレーシアとなった植民地時代のマラヤでの1948年のバタン・カリ(Batang Kali)虐殺事件<(注4)>がある。
 (注4)1948年12月12日、戒厳令下のマラヤで、マライ人および支那人からなる共産主義者達に対する平定作戦(コラム#2476、2478、3952、4195、4268)に従事していた英軍部隊が非武装の村民24人を無差別に殺害した事件。英国の「ミライ事件」と呼ばれる場合がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Batang_Kali_massacre
 この事件では、年長の社会病質者的な曹長(sergeant major)によって撃てと命ぜられたところの、徴兵された若き兵士達によって殺害された無辜の村民達の親戚達が補償を求めている。
 米国人達は、この事件で、ベトナムでのぞっとする思い出を掻き立てられることだろう。
 キプロスでは、1950年代に英国に雇用されていた通訳達が、英国の諜報将校達が、銃砲火薬の密輸入についての情報を引き出そうとして電気ショックを与えたり爪を剥がしたりした<(注5)>話を語った。
 (注5)1955年から独立を達成する59年にかけて、キプロスでは対英叛乱が続き、叛乱容疑者は拷問を受けた。存命の犠牲者は600人とも言われる。
http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/cyprus-fighters-sue-britain-for-torture-during-uprising-8373867.html
 現在のイエメンにあるアデン(Aden)の事件<(注6)>は、中でも最悪のものかもしれない。・・・
 (注6)Aden Emergency。1963年からアデンで反英叛乱が起こり、英国が撤退する1967年まで続いた。叛乱容疑者達は投獄され虐待された。(インディペンデンス上掲)
 アデンには、「<英国>が1839年から海軍基地を置きインド支配のための船舶を海賊から守った。・・・1937年に<英国>は「アデン植民地」としてインドから切り離し、急速に港湾として機能が充実し、人口が増加した。・・・1967年にイギリスからイエメン人民民主共和国(南イエメン)が独立し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%B3
 「イエメン・アラブ共和国・・・、通称北イエメン・・・は、1962年から1990年までの間現在のイエメン北部に存在した国家。首都はサナア。1918年に前身のイエメン王国がオスマン帝国から独立し、1958年にアラブ連合共和国との間でアラブ国家連合を構成するが、1961年にシリアが独立したことに伴いアラブ連合共和国が崩壊したため解消した。1962年に王制が打倒され、汎アラブ主義を掲げた新政府が成立するが、サウジアラビアに亡命政府を樹立した王制派との間で1970年まで内戦が続いた。1990年5月22日にイエメン人民民主共和国と統合し、現在のイエメン共和国となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3
 英米のかつての植民地宗主国としては初めて、英国は犠牲者達に対する個人補償を行うこととなったわけだが、他の諸国も、同様の非難に直面してきた。
 2006年には、20世紀初頭における、ドイツ軍によるヘレロ(Herero)部族に対するジェノサイド<(コラム#4416、4418、4420、4422)>の補償として、ドイツ政府はナミビア政府に対して数百ユーロを支払うことを申し出た。
 また、ドイツ政府は、ナミビアの首都のウィンドフク(Windhoek)で公式の謝罪を行った。
 2011年には、・・・裁判所によって、オランダ政府は、植民地時代のインドネシアにおける1947年の虐殺<(注7)>の生存者達に補償するよう命じられた。
 (注7)ラワゲデ虐殺(Rawagede massacre)。1947年12月9日にジャワ西部における叛乱平定作戦の最中に起こった事件。村民の男性の殆んど全員の431人が殺害された。件の判決は、2011年9月14日にハーグの裁判所によってなされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rawagede_massacre
 しかし、オランダ政府は、まだ補償金を支払っていない。・・・
 英国人歴史家たる、アンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)<(コラム#2917、3156、3493、3505、4519、4665、4868)>、ニオール(ニール)・ファーガソン(Niall Ferguson)<(コラム#125、207~212、738、828、855、880、905、914、967、1053、1202、1433、1436、1469、1492、1507、1691、3129、3379、4123、4207、4209.4313、4870、5081、5087、5116、5125、5162、5291、5300、5314、5530、5546、5675、5677、5687、5907、5942、5950、5991、5993、6191、6257)>、及びマックス・ヘースティングス(Max Hastings)<(コラム#590、1533、2127、3334、3509、4872、5288、6132)>は、全員、善き船たるブリタニア号のマストに自分達の旗を打ち付けて来た。
 同号が、大洋を航海しつつ世界に文明と繁栄をもたらした、というのだ。
 こんな見方は、もはや、信用できるようには見えそうもない。・・・」
http://www.nytimes.com/2013/06/13/opinion/atoning-for-the-sins-of-empire.html?ref=opinion&_r=0
3 終わりに
 日本の植民地統治が、英国等の植民地統治とは異なり、ジェノサイドはおろか、拷問の誹りも基本的に免れていること、それどころか、飢饉による死者さえ全く出していないことからして、いかに文明的なものであったかが改めて身に染みて分かろうというものです。
 それは、人類史上空前の人間主義的植民地統治であった、とあえて申し上げておきましょう。