太田述正コラム#6290(2013.6.25)
<パナイ号事件(その19)>(2013.10.10公開)
 「このころ、近衛首相と広田外相の不仲は側近が心配するほどあからさまになっていた。・・・
 近衛首相の日独伊防共協定路線への急傾斜と、当時親英派と目されていた広田外相との軋轢も関係したと思われるが、近衛は病気で辞表を提出した馬場鍈一内務大臣の後任に、末次信正海軍大将(予備役)を就けた(12月14日就任)。末次海軍大将こそは加藤寛治と組んで海軍部内に親独、反英米の「艦隊派」「統帥派」の一大派閥を形成するのに狂奔してきた、札つきの軍拡強硬論者であった。・・・
 内務省は、・・・治安警察法、治安維持法を運用し、・・・<また、>国民精神総動員運動の推進本部の役割をになっていた。・・・
 しかも、このとき近衛首相は、内閣を投げ出して、首相を辞めることを考えていた・・・。」(225~226)
→近衛の孫である細川護熙が、(父親の細川護貞や)この祖父が出た京大法を目指すも二度不合格となって断念したという点こそ違え、時代の潮流を見抜いてそれに乗る才覚に優れる一方で、父親が子の護熙が首相になった時に「「あれの性格ではいずれ投げ出すだろう」という趣旨の発言をし」、的中した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E7%86%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E8%B2%9E
ことが雄弁に物語っているように、容貌を含め、同じく首相を務めた近衛と瓜二つの人物であることは興味深いですね。(太田)
 「日本海軍機によるパナイ号撃沈の第一報は、1937年12月14日各新聞で、南京陥落直前の激戦のもようを華々しく報ずる紙面の片隅に小さく報道された。・・・
 翌12月15日の新聞は、パナイ号事件・レディーバード号事件が重大な国際問題化していることを・・・報じた。・・・
 ついで各新聞は、<16、17日、>アメリカ、イギリス政府が厳しい対応をみせていることを報道した。・・・
 こうして、パナイ号撃沈のニュースが流れると、民間でアメリカに謝罪する運動が自然発生的にはじまった。・・・
 新聞が仰々しく報道したのが、女性、少女、子供たちの謝罪活動であった。・・・
 パナイ号事件に対する謝罪運動は、個人や団体が、アメリカ政府・国民へのお詫びの手紙を書き、お見舞いの贈り物を差し出したり、事件遭難者への慰問金を集めて贈るというかたちで進められた。・・・
 日本の外務省、海軍そして国民が展開してきた謝罪・賠償運動は、広田外相のやりかたでもある、事件の原因や責任の究明よりは、国民的規模の陳謝と償いの申し出によって早く示談的決着に持ちこもうというものであった。それが、いちおう功を奏して、「円満解決」したととらえた日本側では、損害賠償に関する以外のことは、ほとんど問題にしなくなった。新聞のパナイ号事件報道も「喉元過ぐれば熱さを忘る」の諺そのままに、その後は紙面から消えていった。
 同じ12月27日付アメリカのボストンの新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』の社説「事件の終結–残る疑問」は、「日本は喜ばしげにパナイ号事件が終結したと言っている」ことを批判してこう述べた。
 不幸なことに、日本国民は・・・なおそれは誤爆だと信じている。さらに日本の新聞は全体として、アメリカの抗議の全文や、あるいは日本の陳謝さえも発表していない。国民は攻撃の重大さや、米国国民感情激昂の程度や日本政府が合衆国を満足させるために費やした文言の長さを知らされていないのである。・・・
 グルーは・・・、近衛首相が、パナイ号撃沈をめぐるアメリカ政府と国民の動向についてほとんど無知で、首相側近がセレクトした都合のよい情報だけを与えられていたため、アメリカおよび外国の対日意見について正確な認識をもっていなかったことを記している。パナイ号事件に対するアメリカ政府・国民の対日批判と抗議運動に関するニュースは、各地の在米領事から外務省に逐次報告されていたのである・・・。それらの情報は国民にはもちろん知らされなかったが、広田外相は、不仲ゆえにか、・・・近衛首相にも正確につたえなかったのである。」(229~231、233~234、242~245)
→「国民が展開してきた謝罪・賠償運動は、広田外相のやりかたでもある」という笠原の記述もまた、転倒した論理に立脚しています。
 政府が本当のことを発表せず、日本の新聞もまた、(本件について検閲があったのかどうかは詳らかにしませんが、)米国の言い分の全体、就中故意による攻撃であったとした点、を報じなかったらしい中で、人間主義的で、かつ、米国大好き人間が多かった日本国民が下から自発的に始めた謝罪・賠償運動を、あたかも、外務省が上から組織したものであるかのように描いているからです。
 それにしても、日本国民の人の好さは、ここまで来ると滑稽としか言いようがありません。
 相手の米国人は、一般に日本人に比して非人間主義的である上、日本人とは違って人種主義者である者が大部分であり、そのこともあって、日本人、ひいては日本を見下していたときていたのですから、こんな謝罪・賠償運動をいくら行っても、何か魂胆があると勘繰られたり、愚行として笑いものにされたりするだけで、殆んど効果がないことを知らなかったのですから・・
 日本人に対するこのような偏見があったからこそ、米側は、グルー駐日大使も、米国の主要紙も、パナイ号/レディーバード号事件の真相を解明することができなかったのでしょう。
 いずれにせよ、銘記すべきは、ヒューゲッセン事件、及びパナイ号事件(、そして事実上レディーバード号事件も、)の対処方針の決定に中心的役割を果たしたのは、浅知恵の外務省もさることながら、海軍であって、しかも、そのキーパーソンが山本五十六海軍次官・・彼は米国の潜在能力に対しては正しくも畏怖の念を抱いていた・・であった可能性が高いことです。
 彼は、伝統的に米海軍を仮想的としてきたところの、帝国海軍の大幹部であるにもかかわらず、しかも、米国滞在経験が長かったにもかかわらず、米国の半可通にとどまり、当時の米国人の、多くが抱く(上述の偏見を含む)心情や孤立主義的傾向について、無知に近かった・・有体に言えば、当時の外務省の英米通並の認識しかなかった・・としか思えません。
 パナイ号事件等でバレバレのウソをついたりすれば、米国人の対日偏見を増幅させるだけであること、本当のことを米国に伝えて米国人の激昂を買ったところで、米国が孤立主義を克服して対日開戦をするようなことはありえないこと、が彼には分からなかったのではないか、と私は見ているのです。
 そこからは、日本及び米英にとっての日支戦争の意味を対赤露抑止の観点から米国人に対してあらゆる機会をとらえて説明する、といった発想が出て来るはずもありません。
 同じことが、その後の、彼が連合艦隊司令長官だった時の対米開戦/真珠湾奇襲攻撃についても言えます。
 米国の孤立主義の基調は全然変わっていなかったのですから、対英(マライ)攻撃だけにとどめ、対米開戦は思いとどまるように全力を挙げて日本政府部内の根回しを行わなければならなかったのに、それをしなかったことは致命的ですし、真珠湾攻撃開始直前に宣戦布告通知が米国政府に伝わるような形の奇襲にこだわったことも愚策でした。
 万一、宣戦布告の伝達が遅れた場合のことを彼が考えた形跡が全くない、ということは、彼は、駐米日本大使館に駐在武官として勤務した経験もあるというのに、大使館の事務能力のお粗末さや外務省そのものの退廃ぶりを十分把握していなかったことや、伝達が遅れた場合に米国民の圧倒的多数がいかなる反応をするかが全く想像できなかったこと、を示しています。(太田) 
(続く)