太田述正コラム#6318(2013.7.9)
<日進月歩の人間科学(続x32)(その3)>(2013.10.24公開)
3 コメント
 (1)ゾー・ウィリアムズ(Zoe Williams)のコメント
 ウィリアムズ(1973年~)は、オックスフォード大卒の英国のコラムニスト・ジャーナリスト・著述家たる女性です。
 彼女には、内縁の夫との間に一男一女がいます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Zoe_Williams
 「男性と違って、我々の動物的性欲求(animal urges)は、社会及び我々自身によって確固として否定されている。
 だから、それが顕在化した時には、制御できる(manageable)せせらぎではなく、巻き込んだあらゆるものを、(性交している(shagging)霊長目の番でさえ、)飲み込んでしまうところの、迸る急流となる。・・・
 <世界中で空前のベストセラーとなっているエロティック浪漫小説の>Fifty Shades Of Grey
< http://en.wikipedia.org/wiki/Fifty_Shades_of_Grey >
を見よ。
 <英国だけで>530万部<も売れた>。
 これは、記録が始まって以来の、英国における最大のベストセラーだ。
 英国の女性の5人に1人を超える人がこの本を持っている。
 人が貸すことも考えると、恐らく1000万人の女性、つまりは英国の成人女性の半分近くが読んだことになる。」
http://www.guardian.co.uk/books/2013/jul/05/what-do-women-want-daniel-bergner
 (2)太田のコメント
  ア アフリカにおける女性器切除
 「女性の外性器を取り去<ること。>・・・2,000年もの間、赤道沿いの広い地域のアフリカで行われてきた。現在ではアフリカの28カ国で、主に生後1週間から初潮前の少女に行われる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E9%99%A4
→これは、女性の性への貪欲さの顕在化を恐れるあまり、それを絶対に阻止するためには、あらゆる社会に共通しているところの、社会的抑制や女性本人自身による(無意識下の)抑制だけでは不十分である、との考えから行われている、と私は見ています。
 
  イ イスラム社会における女性隔離
 「イスラーム社会で<は、>・・・ヒジャブを強制<したり、>・・・原則として女性は親族男性以外に触れられてはならないとする規定を持つ地域が多<い。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A8%E5%A5%B3%E6%80%A7
→これは、同じ考えから、社会的抑制をより強いものにするとともに、制度化したものである、と私は見ています。
 なお、アとイの地域は、北アフリカにおいて、重なり合っているところです。
  ウ 仏教の女性との折り合いの悪さ
 「伝承では、最初の比丘尼は釈迦の養母の摩訶波闍波提 (まかはじゃはだい、mahaaprajaapatii)と500人の釈迦族の女性たちであった。釈迦ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女たちの熱意と阿難のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗したりしないなど8つの事項を守ることを条件に、女性の出家を認めたという。これにより釈迦の元妻である耶輸陀羅(やしょたら、ヤソーダラー)、大迦葉のかつての妻である妙賢(バドラー・カピラーニ)、ビンビサーラ王の妃であった差摩(さま、ケーマ)、蓮華色比丘尼(ウッパラヴァンナー)など次々と出家し尼僧集団が形成された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC
→釈迦に男女差別意識があったとは私には到底思えませんし、悟りは、あらゆるものの垣根を取っ払うはずで、男女区別や差別意識とは対蹠的な代物であることからも、このような釈迦の迷いには、何らかの根拠があったと見るべきでしょう。
 案の定と言うべきか、小乗仏教のタイでもミャンマーでも、仏教徒たる青年の大部分は一定期間出家生活を送るところ、それは男性に限られています(コラム#6313)。
 また、大乗仏教を継受した日本でも、次のようなことが起こっています。
 「日本最初の尼は、584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘・善信尼ら3人である。彼女たちは百済に渡って戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。741年・・・、聖武天皇の発願で国分寺が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺も置かれた。しかし、鎮護国家の思想が強まるにつれて僧侶の持戒を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭う風潮が生まれた。そのため、尼に対する授戒は拒絶され・・・、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる。・・・
  尼の存在自体が否認される以上、国分尼寺も存立の根拠を失い、そのほとんどが国分寺よりも早い時期に廃絶したり同寺に併合されることになった。・・・
 鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、叡尊もかつての国分尼寺の総本山であった法華寺再興の際に同寺に尼戒壇を設置した(・・・1249年))。彼の真言律宗の布教の影響によって次第に尼への受戒が許容されるようになった。鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山が定められた。・・・
 江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。
 尼は日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれたが明治維新以降は儒教的な家父長制の価値観が旧武士階層以外にも広まり、これに加えて国粋主義も台頭した昭和期には日蓮正宗のように尼を廃止した例もある。」(ウィキペディア上掲)
→何とも、仏教と女性との折り合いは悪そうだ、という印象を持たれたことでしょう。
 そもそも、日本文明の基調は、縄文モードであり、男女差別がなく、むしろ女性優位であるにもかかわらずです。
⇒以下は私の仮説ですが、悟りは、社会的個人的抑制からの解放であるところ、それは、人間主義化をもたらすけれど、女性の性的貪欲性の顕在化をももたらしうるからではないでしょうか。
 直観力が並はずれていた釈迦は、後者への懸念を抱いたために、当初、女性の出家、すなわち女性に悟らせることを躊躇した、と考えたらどうか、ということです。
 「江戸時代に入ると・・・比丘尼<には>、売春婦に転落するものもいた。」という事実が、釈迦の懸念を裏付けている、と私には思えてならないのです。
 下掲のように、仏教で女性の出家者により厳しい条件を課しているのは、少しでも女性の性的貪欲性の顕在化を回避するためである、と考えられるわけです。
 「出家者には、「三帰依戒」と、「沙弥戒」や「沙弥尼戒」(女性は別に段階的な戒がある)等を授かってから見習いの僧や尼僧となり、男性は一年、女性は二年後以降に20才を越えてから具足戒が授けられ、この具足戒を授かることにより正式な出家の僧侶あるいは尼僧となる。具足戒の条項は数が多くかつ具体的であり、『四分律』では比丘は約250戒、比丘尼は約350戒にものぼる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%AE%B6
(続く)