太田述正コラム#6342(2013.7.21)
<日支戦争をどう見るか(その2)>(2013.11.5公開)
 (3)日支戦争総論
 「<日支>戦争は、北方における一連の小競り合いで始まり、最初に空における、次いで地上における、突然の日本軍の攻撃が起こった。
→「北方における一連の小競り合いで始ま」ったとは必ずしも言えず、むしろ第二次上海事件で始まったと見た方が妥当ですし、上海事件は蒋介石政権側の地上における攻撃から始まり、空軍の出動は日本側と蒋介石政権側がほぼ同時であり、ミターは完全に間違っています。(太田)
  欧米の、(ミターが自分が認める人々や諸派(movements)を指す言葉であるところの、)「進歩派(progressives)」の頭の中では、この日本の猛攻撃は、スペインにおける反ファシスト闘争と一致した。
 当時、支那を訪問していた、オーデン(Auden)<(注1)>とイシャーウッド(Isherwood)<(注2)>は、まさにこの比較を行ったものだ。」(I)
 (注1)Wystan Hugh Auden。1907~73年。「イギリス出身で<米>国に移住した<ゲイ>詩人。・・・一家は・・・カトリックの信徒であった。 1925年に生物学の奨学金でオックスフォード大学・・・に入ったが、英語専攻に切り替えた。・・・<イギリスで>同性愛が・・・抑圧<されていたこともあり、>・・・ベルリン<等>に滞在した。・・・日中戦争勃発後の1938年に中国を訪問・・・。1930年代にはマルクス主義を捨ててキリスト教に戻った。1939年に<米>国に移住し、1946年に国籍を取得した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/W%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3
 (注2)Christopher William Bradshaw Isherwood。1904~86年。「イギリス[出身で米国に移住した]<ゲイ>小説家。[戦争忌避者。]「サリー州のプレパラトリー・スクールでW・H・オーデンと出会う。その後、医学を学ぶためにキングス・カレッジ・ロンドンに入学したが、1年で退校した。イギリスのアッパー・ミドル階級の暮らしを嫌悪し、ベルリンやコペンハーゲン、シントラなどヨーロッパ各地で生活したのち、[1938年にオーデンと一緒に支那を訪問。]<そして、>[1939年にオーデンと一緒に]<米>国へ渡<り、>[1946年に国籍を取得した。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Isherwood ([]内)
→同性愛の文学者達の政治的見解など、引用するに値するかどうか疑問です。(太田)
 「支那は<連合国の>忘れられた同盟国であっただけでなく、戦争体験によって最も変えられた国だった、とミターは言う。
 <戦後、>英国と米国は、1950年代の経済ブームを経験することになった。
 <戦時中、>ソ連は瀬戸際まで追い詰められたけれど瓦解はしなかった。
 しかし、<戦時中、>「虐待され、強打を受けて脳障害を起こした」けれど、支那は決して降伏せず、その時代遅れの統治(governance)制度は破壊されたのだ。」(C)
 「1949年における中華人民共和国の設立は、蒋介石の国民党を致命的に弱体化し、中国共産党が軍事力と人民の支持を構築することを可能にしたところの、日支戦争に部分的に起因させることができる。」(J)
→書評子がこの本を誤読した可能性もありますが、「部分的に」は「全面的に」の間違いでしょう。戦後、米国が蒋介石政権を見離すことなく、引き続き支援を続けておれば、中国共産党による権力奪取はなかったであろうことは確かですが、日本が日支戦争/太平洋戦争で降伏しない限り、米国が蒋介石政権を見離すことはなかったでしょうから、結局のところ、中国共産党の権力奪取は、「全面的に」日支戦争に起因すると言えるからです。(太田)
 「蒋介石が記憶されているとすれば、それは、その貪欲さが、米国人達をして、彼を「<(Chiang) Kai-shekならぬ、>「Cash-my-Check(ボクの小切手を現金化してくれ)」というあだ名で呼ばせるに至ったところの、腐敗した無能な指導者としてだ。
 しかし、近年においては、彼の故国が第二次世界大戦における連合国の努力への諸貢献を認めるにつれて、彼の仇敵の毛によって創建された国家である人民共和国における、彼の地位は向上して来た。・・・
→後で、蒋介石そのものを改めて論じますが、中国共産党が腐敗するにつれて、蒋介石政権の腐敗など、中共当局としては、問題にならなくなった(問題にできなくなった)ことに伴う、蒋介石の「地位<の>向上」かね、なーんて茶々を入れたくなるところです。(太田)
1937年7月に、北京の盧溝橋で日本軍と支那軍の部隊の間で戦闘が勃発したところ、それは、この二つの民族(nation)の間の全面戦争へ、そして、真珠湾後には、全球的紛争へ、とつながる火花となった。・・・
 1937年の日本の支那侵攻は、ひどい諸残虐行為の<日本軍による>実行をもたらした。
 その最も有名なものは、前首都の占領の際に大勢の一般住民が屠殺されたところの「南京大虐殺(Rape of Nanking)」だが、約4,000人の人々が1939年5月3、4日の2日間の継続的空襲によって殺されたところの、戦時臨時首都の重慶におけるテロ爆撃のような出来事を。」(E)
→南京事件では「大勢の」捕虜殺害が行われた可能性が高いけれど、「大勢の」一般住民が殺害された可能性はゼロであり、ミターはここでも間違っています。
 また、重慶の戦略爆撃が「テロ」爆撃だとすれば、米軍による日本の都市の焼夷弾攻撃や広島・長崎への原爆投下の形容詞がなくなってしまいます。
 更にまた、この箇所に限りませんが、ミターが、都合の良い時だけ支那事変と太平洋戦争の継続性を持ち出すのは困ったものです。(太田)
 「<第二次世界大戦という>全球的紛争の端役(marginal actor)どころか、支那の貢献は究極的に連合国の勝利をもたらすことを助けた。
 しかし、それは支那の人々にひどいコストをもたらした。」(E)
→日本を対米英開戦においつめたことに、たまたまヒットラーが呼応して対米開戦なる、何の条約上の義務もないところの、ドイツにとって損になるだけの愚行をやってのけてくれたおかげで、米国は対独戦争としての第二次世界大戦に参戦でき、それがナチスドイツの敗戦を早めた、という限りにおいては、結果的にミターの言っていることは正しいけれど、そんなことを歴史学者が、素面で口にしてはいけません。(太田)
 「我々は・・・極端なことを論じがちだ。
 例えば、蒋介石が腐敗した落第者(failure)であるという見方がある。
 しかし、そんな完全な落第者が、かくも長く、一人ぼっちで抵抗を持続し、支那の切り盛りを続けたのはどうしてだと言うのだろうか。・・・
 <彼が行った>経済的自給自足に向けての猛運動(drive)、難民危機によって拍車をかけられた社会福祉・・蒋介石政権は、8000万人の難民に対処しなければならなかった・・が国と社会の関係の性格を変えた。
 それは、同時に、その多くの要素において軍事化されたままになった支那をも創造した。
 人々は、自分達自身のことを考え、しばしば、標的に志向したキャンペーン諸活動の中に組織化された。
 これもまた、共産党の時代を通じて現在もなお残っている諸要素だ。・・・
 我々が、粉々になった支那の状況、とりわけ、(1944年後半における日本軍の大規模な攻勢である)一号作戦<(注3)>後・・を見れば、蒋介石政権は、米国の現金の巨大な額の注入なくしては立ちいかなくなっていた。
 (注3)「1944年4月17日から12月10日にかけて・・・行われた作戦。・・・前半の京漢作戦(コ号作戦)と後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられる。日本側の投入総兵力50万人、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、計画通りの地域の占領に成功して日本軍が勝利したものの戦略目的は十分には実現できなかった。・・・
 1942年にビルマで日本軍が援蒋ルート<を>遮断した事で<米国>からの軍事<支援>物資・・・が不足し・・・<例えば、>1943年頃に・・・は将軍18名、高級将校70名、兵士50万人が日本軍に投降しており、・・・日本と単独講和で休戦して連合国の戦線から離脱する事が蒋介石政権崩壊を防ぐための得策だった。ちなみに同時期の1943年にイタリアは軍事的な考慮から枢軸国の戦線から離脱し<ている>。
 しかし米英首脳は・・・日本・・・の無条件降伏を目指しており、そのためには<支那>にいる100万人の日本陸軍を撃ち破・・・る<こと>が必要であり、その役割を蒋介石<に担わせようとした>。<このような、>カイロ<宣言>で<打ち出さ>れた対日戦略は、テヘラン会談におけるソ連の役割を無理矢理に中国国民党に当てはめたという意味で無理のある戦略<だった。このほか、米軍機による支那>から日本本土への爆撃計画も<立てられ>た。
 カイロ宣言後に、スティルウェルや国務省の外交官から次に日本軍に攻勢されれば蒋介石政権<は>倒壊させられる<し、支那からの日本本土爆撃は日本軍の攻勢をもたらすと警告が発せら>れた・・・<が、日本本土爆撃は実行され、この警告>どおり、大陸打通作戦<が発動され、>・・・国民党軍は・・・総崩れになってしまう。・・・
 <すなわち、>ルーズベルトの・・・<蒋介石政権>に日本を無条件降伏させる対日戦略と<支那>から<米>軍の日本空襲計画、米英ソの連合国三巨頭に中国を加える事によって対日戦争での中国の士気を高める「四人の警察官構想」は彼の認識不足による過大なものであった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
 支那の国民党政府を回復させることができたであろう、言うなれば、一種のマーシャルプランなくしては・・。」(G)
(続く)