太田述正コラム#6354(2013.7.27)
<日支戦争をどう見るか(その8)>(2013.11.11公開)
 (11)その後の支那
 「国民党の共産党の軍隊が武器をおろして降伏することを拒否したことで、約50万人の日本軍諸部隊が支那本土に貼り付かざるをえなかった。
→約50万人は、約100万人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%B4%BE%E9%81%A3%E8%BB%8D
の間違いです。(太田)
 その結果として、蒋介石の支那は、ついに1840年代の<二度にわたる>アヘン戦争以来、欧米との殆んど植民地的関係の中にそれを拘束して来た「不平等条約群」を払いのけることができた。
→既に触れたように、これは間違いに近いと言えるでしょう。(太田)
 現在、支那は、国連安保理の常任理事国である唯一の非欧米国として、全球的外交の最上級の座(table)へと招待されている。
 しかし、国民党支那の日々は終わろうとしていた。
 毛沢東の共産党に対する暴虐的な内戦で彼らは1949年にひどく敗れ、人民共和国が宣言されたのだ。」(E)
 「蒋介石と彼の腐敗した国民党に象徴される古い秩序は、日本軍と戦うために毛沢東の共産党と合作した。
 1945年に勝利が訪れた時、この<古い>体制を続けることがもはやできないことは明白だった。」(C)
 「1970年代央の毛沢東と蒋介石の死の後になってようやく、支那は戦争によって繰り返し教え込まれた内向きの心性(mentality)を超えて動き出した。・・・
→日支戦争と「内向きの心性」との間に、何の関係もある訳がありません。(太田)
 ミターのこの本は、今日に至るまで、どうして支那人達の日本に対する見方がかくも敵意に満ちているかを論証する。
 この状況は、日本が、ドイツの例とは対照的に、犯した戦争諸犯罪への悔恨(contrition)をずっと見せないことで、大いに悪化させられている。」(A)
→しばしば日本で指摘されていることですが、日本軍(や英米軍)が犯した戦争犯罪と、ドイツ国家が犯したホロコースト等とは、比較することは後者の犠牲になったユダヤ人達を冒涜するに等しいところの、全く次元の異なる事柄です。(太田)
 「ミターは、この戦争はいまだに痕跡を残している(has legacies)・・支那の国連における常任会員<(=安保理事会常任理事国)>がその一つであり、日支諸関係の上にも・・。」(D)
 「<日本という>敵国の占領軍との協力者達は、人々を、日本に協力すればより大きな繁栄がもたらされさえするかもしれない、と説得しようと試みた。
 この文脈の中で、共産党の申し出(offer)が出てきたのだ(developed)。
 それは、改革アジェンダにおいてより完全で、より平等主義的でより急進的だった。
 これは真空中から出現してきたわけではなく、異なった政治的諸可能性のあった領域の中で相手方への対応ないし相手方との競争の中から出現したのだ。・・・
→ミターが、ここでも蒋介石政権の福祉政策の中身に全く触れていない以上、そんなものは存在しなかった、ということを一層推認させる、と言えるでしょう。
 なお、ここで言及されている共産党にも福祉観念など無きに等しく、「改革アジェンダ」は全くのプロパガンダに他なりませんでした。(注21)
 これでは、もともと皆無であったところの、民衆の国家/政府に対する信頼感や公の観念・・支那の自由民主主義化のための必要条件・・が醸成されるはずがありません。(太田)
 (注21)「<中共が成立した以上、>田地を分配し“均貧富”を図るという目的は、本来、平和的に達成可能であった。しかし中共はこれを採用しなかった。・・・農民が簡単に土地を手に入れたのでは、地主に対する恨みは生ぜず、ひいては農村の積極的支配も実現できないことだった。・・・かくして、本来平和裡に遂行可能だったはずの土改は、流血の土改となった。・・・控えめな推計でも、当時、土改運動で殺害された“地主分子”は200万にのぼる。ある・・・推計では、土改中の死亡者は450万人の多きに達する。・・・
 毛沢東は早くから農業合作化により土地を政府の管理下に置くことを計画していたのであり、また実際にも、・・・土改運動が未だ終息していない1951年9月9日、中共中央は第一次農業互助合作会議を招集し<、>1953年2月15日、中共中央は・・・農民たちの土地を互助組、合作社を通して“集体”に移管せしめた。中国貧窮農民の土地所有の夢は二年を経ずして破られた。・・・
 では、中共はなぜ、土地を農民に分配するという茶番(過場)を必要としたのか。・・・
 土改運動における重要な項目として、農村人口の階級成分(属性)への分類がある。雇農、貧農、中農、富農、地主の五つの属性に分類された。貧雇農は中共のバックボーン(依靠的对象)であり、中農は団結対象であり、地主と富農は搾取階級と定義され打撃の対象であった。ここに、中国農村における階級前線は分明となり、永遠の下等階級,つまり地主と富農が出現した。・・・
 1978年改革の‘聯産承包責任制’でも、土地を農民に貸与すると言い、土地はやはり国家のものである。中共の字典では、国家=政府なので、つまり、土地は政府のものである。ゆえに、今日に至るまで、政府の各級官員は土地に対する絶大な支配権を持ち続けている。ゆえに、彼らは気ままに土地を収用し、強制移転させ、勝手に土地価格と補償額を決定し、引き続き農民または土地使用者に損失を与え続けている。」
http://laojiubao.wordpress.com/2008/09/20/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9%EF%BC%881950-1953%EF%BC%89/
 
 尖閣/釣魚諸島から北朝鮮に至る諸紛争の発火点群の全ては、1945年に終了した危機について、全球的コミュニティが解決する能力がないことに起因する。・・・
→不条理にも日本を敗北させたことが、戦後の東アジアにおける「諸紛争の発火点群の全て」の原因なのであって、そのためもあり、「全球的コミュニティ」など、いまだに成立していないのであり、成立していないものについて「解決する能力」もくそもないでしょう。
 ミターは気が狂っているとさえ言いたくなります。(太田)
 汪兆銘の敵国の占領軍に協力する体制に参加するために出発する前に、汪の次席たる周仏海(Zhou Fohai)<(注22)>は、一つの疑問を日記に書き付けた。英雄が状況をつくるのか、状況が英雄をつくるのか、という・・。・・・
 (注22)1897~1948年。「日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。
 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は蒋介石に従い、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年に汪が対日和平を志向して重慶を脱出すると、これに従い汪兆銘政権成立に参加する。・・・汪政権成立後は行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・物資統制委員会委員長を歴任した。汪兆銘亡き後は、陳公博が主席代理となったが、周は陰の実力者の地位を固め、「実質的な後継者」とも評される・・・。戦後漢奸として逮捕され、1946年11月7日に死刑の判決を受けるが、特赦により、1947年3月26日、無期徒刑に減刑される。特赦を発表した「国民政府令」によれば、減刑の理由は、「敵寇降伏前後、よく京滬杭一帯の秩序を維持し人民に塗炭の苦を受けしめず、社会の安全に貢献するところ少なくない」とのことであった。1948年4月、南京で収監中に獄死した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E4%BB%8F%E6%B5%B7
→その後に続く文章を引用しなかったので、これだけでは意味がお分かりにならないでしょうが、当時、日本に協力してくれた重要人物の一人たる周仏海の紹介をしたかったということで、ご理解願います。(太田)
 中華民国(The Republic)は1945年には消耗し切っていた。
 その第一の理由は、日本に抵抗してきたからだ。
 国民党の支那は降伏することを拒否し続けたけれど、<蒋介石政権の中華民>国はその政治的燃料を全て燃やし尽くしてしまっていた。
 この地域では、同じことがフランスの諸植民地・・そこではそのすぐ後からインドシナ諸危機が始まった・・、そして、瓦解(break apart)し始めていたところの、英国及びオランダの二つの帝国領についても見て取れた。」(G)
→ミターは、戦後、仏英蘭のアジアでの植民地帝国が瓦解した原因が、これら諸国が欧州でナチスドイツに対する抵抗で消耗し切ったからだ、とでも言いたいのでしょうか。
 そうではなくて、日本によるこれら植民地の占領とインパール作戦、そして、同作戦で日本に協力して英印軍と戦ったインド国民軍、更に日本がつくり、戦後オランダと戦ったインドネシアの郷土防衛義勇軍とこの義勇軍に加わって戦った日本兵士2000人(うち1000人が落命)、等、が瓦解させたことは明白です。
 ミターの曲学阿世ぶりには怒りを禁じ得ません。
 なお、戦後、蒋介石政権が中国共産党に敗北した理由については、その主因が「日本に抵抗」したことによる「消耗」ではなく、米国の裏切り、というより気まぐれこそ主因であったことは、既に記したところです。(太田)
(続く)