太田述正コラム#6411(2013.8.25)
<日支戦争をどう見るか(その34)>(2013.12.10公開)
5 備忘録的後書き
 (1)仏教の暴力性?
 仏教は、キリスト教やイスラム教に比べて平和的な宗教である、という観念が、我々にはもとより、欧米にもあるのですが、ダライ・ラマのノーベル平和賞受賞や、座禅の人間主義化的効能が科学的に明らかになりつつある現在、良心的なキリスト教徒が追い詰められている、ということなのでしょうか、仏教が必ずしも平和的な宗教ではない、と主張する下掲のコラムに遭遇しました。
 「スリランカでは、<このところ、仏教徒が、>・・・イスラム教徒のビジネスをボイコットしたり、イスラム教徒の家族が子だくさんであることを罵倒したりしている。・・・
 ・・・どんな宗教でも、創始されると、遅かれ早かれ、国家権力とファウスト的契約を取り結ぶことになる。
 仏教の僧侶達は、究極的な暴力掌握者たる国王達に、彼らだけが提供できるところの、支持、保護、そして秩序を求めた
 国王達の方は、かかる高度の道徳的ヴィジョンだけが授与できるところの、民衆的正統性を僧侶が提供することを求めた。
 その結果は皮肉的なものと見ることができる。
 仮に、誰かが、自分の世界観について、他の全てに優先する道徳的優位を強く感じているとすれば、それを守り、推し進めることは、何にも勝る最も重要な義務のように見えて不思議ではない。
 十字軍騎士達、イスラム闘士達、そして「自由を愛する諸国民」の指導者達は、全て、より高い善の名の下での必要な暴力と彼らが見るところのものを正当化する。
 仏教徒たる統治者達や僧侶達もその例外ではなかった。
 だから、歴史的には、仏教はキリスト教よりも平和な宗教だったわけではない。
 スリランカの歴史上最も有名な国王の一人であるドゥトゥガマヌ(Dutugamanu)<(注65)>による、紀元前2世紀のセイロン島の統一は、重要な年代記であるマハーヴァムサ(Mahavamsa)に物語られている。
 (注65)スリランカのシンハラ人の国王。在位:BC161~137年。東南インドを本拠とするチョーラ朝のタミル人たる王族の一人がセイロン島に侵攻し、シンハラ人の前王朝を簒奪していたところ、奪還して新王朝を樹立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dutugamunu
 なお、チョーラ朝についての日本語と英語のウィキペディアの内容は、その最盛期の版図を含め、かなり異なっていることに注意。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rajendra_map_new.png
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Chola_empire.png
 それによれば、彼は、仏教の聖遺物を槍に付け、500人の僧侶を引き連れて、非仏教徒たる国王との戦争に赴いた。
 彼は、敵を粉砕した。
 流血の後、何名かの正覚者(enlightened one)は、彼を慰めた。
 「弑された者達は動物のようなものだ。あなたは仏陀の教えを光輝かせることだろう」と。
→これは、ヒンドゥー教徒たる外来勢力に対するところの、仏教徒たる土着勢力による防衛戦であり、イスラム教におけるジハードやキリスト教における十字軍のような外征戦争ないし侵略戦争と同一視はできません。
 また、このコラムの筆者は、敬虔な仏教徒であった、マウリア朝のアショカ(アショーカ)王(コラム#776、778、2097、2648、6049、6325)が、仏教的統治を行ったが故に国を衰亡させた可能性が強い(注66)ことに、(知っているはずですが、)あえて言及していません。(太田)
 (注66)「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。・・・アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
 「正義(righteousness)の諸国王」として知られるビルマの統治者達は、彼らが呼んだところの、真の仏教教義の名の下に諸戦争を正当化した。
→説明に具体性を欠いています。(太田)
 日本では、多くの武士は禅宗の帰依者であったが、様々な議論が彼らを支えた。
 ひどい罪を犯そうとしている男を殺すことは情けをかける行為であるといった・・。
 このような論法は、第二次世界大戦で日本が動員をかける際に再び浮上した。
→まず、「多くの武士は禅宗の帰依者であった」というのは正しくありません。
 武士が帰依した代表的宗派として浄土宗と日蓮宗を挙げつつ、「中世にあっては、・・・鎌倉仏教が興隆した。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、禅宗、その他旧仏教側でも、・・・律宗などが隆盛を極め、・・・中世の新仏教は百花繚乱の様相を呈していた。その宗教的環境のなかで、中世武士の信仰の選択肢は「来世」か「現世」か、言い換えるならば、来世的死生観か現世的生死観の二者択一を迫られたのである。」
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf09/9-81-92-oyama.pdf
とする論文があります。
 また、武士には、帰依者(信者)どころか、僧侶になってから(出家してから)も武士であり続けた者が少なくありませんでした。
 「「兵・・・」は、平安時代に現れて以降、武を職能とし、武闘や狩りを事として、殺生を行う存在であった。・・・本来ならば、殺生を否定する兵はもはや兵ではないはずである。しかしながら、・・・出家した武士は多く、出家した武士のほとんどが出家前と同様に武家に属するという自負を持ち続けている。」
http://www.sal.tohoku.ac.jp/estetica/symposium-sakura.pdf
 従って、武士は、猟師達同様、殺生を生業として犯さざるを得ない自分を直視しつつ、そのような自分であっても悟りたいと考え、そのための方法論を仏教の様々な宗派に求めていた、と考えるべきであり、その際、このコラムの筆者・・オックスフォード大学の歴史学フェローです・・が言及するように殺生そのものを正当化しようとしたことなど、私は聞いたことがありません。
 一体筆者は、どこでそんな話を仕入れたのでしょうか。
 いわんや、そんな話と先の大戦とを結びつけようとする筆者の論法は論外です。(太田)
 仏教は、ビルマとスリランカにおいて、大英帝国の頸城を跳ねのけようとして出現したナショナリズムの諸運動において指導的役割を果たした。
 時々、これが暴力へと転化(spill out)した。
 1930年代のラングーンでは、<独立のために>直接行動に訴えた中で、僧侶達が4人の欧州人にナイフを振るったこともあった。
 より重要なことに、多くの人々が仏教が自分達の国家的アイデンティティの不可欠な部分であると感じるようになった。
 この立場は、新しく独立した諸国における少数民族にとっては居心地の悪いものだった。・・・
 <1983~2009年の>内戦中、スリランカのイスラム教徒に対する最悪の暴力は<ヒンドゥー教徒たる>タミル人叛徒の手になるものだった。
 しかし、2009年に叛徒の敗北によって内戦が血腥い終焉を迎えた後は、多数派<の仏教徒たるシンハラ人>の共同体的熱情は、イスラム教徒たる少数派という、新たな標的を発見したように見える。
 ビルマでは、2007年のサフラン(saffron)革命の中で、僧侶達が彼らの道徳的権威を振りかざして民主主義のための主張を行った。
 平和的抗議が、当時選択された主要兵器であり、僧侶達は、自分達の命をそのために投じた。
 しかし、今や、僧侶のうちの若干は、自分達の権威を極めて異なった目的のために使っている。
 彼らは<僧侶中の>少数派かもしれないが、貧困を逃れるため、或いは孤児として小さい時に僧院群に預けられた大勢を含むところの、50万人に及ぶ僧侶達の中に、相当数の怒れる若い男達がいることは間違いない。」
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-22356306
(8月11日アクセス)
→どんな集団の中にもできそこないはいる、というだけのことでしょう。
 なお、筆者は、よもや、キリスト教にも殺生の禁止(モーセ十戒の6、「汝殺すなかれ」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
があることを忘れたわけではありますまい。仏教の平和主義を殺生の禁止に矮小化する、この筆者は、仏教の平和主義が、悟り、すなわち人間主義への回帰、を旨とする、その根本「教義」に由来していることを知らないか、それからあえて目を逸らせているのでしょう。(太田)
 結論ですが、やはり、キリスト教やイスラム教に比べて仏教は平和的であったと言わざるをえません。
(続く)