太田述正コラム#6429(2013.9.3)
<日支戦争をどう見るか(その41)>(2013.12.19公開)
 (三)国共内戦
 「<国共内戦>の年々においては、中国国民党の無神経さ(callousness)は中国共産党のそれといい勝負だった。
 国民党は、また、恒常的に軍事諸作戦と経済の管理に適切性を欠いていた。
 その結果、都市と田舎の人々の支持を失<い、彼らは内戦に敗北した>。
 しかし、支那を紛争から解放する(emancipate)どころか、1949年の共産党による解放(liberation)の暴力性は、支那において、その後も何年かの間、更なる事実上の内戦<が継続すること>を運命づけた。」(α)
 共産党の、競争相手たる国民党に対する勝利は、統治の道徳的「委任(mandate)」を反映しているどころか、圧倒的にその<勝利の>本質は軍事的なものだった。
 「ディコッターは、中国共産党による統治の直接的な歴史的背景から始める。
 1949年にこの党を権力の座に就けた、4年間にわたった内戦は、毛沢東の将軍達が情け容赦なく戦ったものであったと。
 <日本によって(太田)>工業化された北東部<(満州(太田))>の主要諸都市を征服するために、共産党の司令官達は、一般住民に対して包囲戦を行った。
 1948年に、「長春(Changchun)を死の都市とせよ」と、毛沢東の最も成功を収めた戦略家の一人であった林彪は宣言した。
 この大都会がひどい5か月が経過した後に陥落するまでに、飢餓により、160,000人の非戦闘員が死んだ。<(注76)(コラム#3560)>」(α)
 (注76)長春での非戦闘員の死亡数についての説は150,000人から330,000人にまである。共産党軍は国民党軍の兵士が包囲を逃れるのは許したが非戦闘員が逃れるのは阻止し、市内の国民党軍を糧食不足に追い込もうとした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Changchun
 (四)中共成立直後
「ディコッターは、人民共和国は、翻身(解放)というよりは、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)の口吻で、その人民に「隷属への道(the road to serfdom)」をとらせた、とする。・・・
 ・・・この国家は、暴力によって建国が成り、その人々に国家の意思を及ぼすために、心理的と物理的の両面にわたる、強制を用いた。
 この人民共和国のバージョンは失楽園(paradise lost)ではなく、常に地獄だったのだ。・・・
 ディコッターの狙いは、この恐怖国家(terror state)が、単に一人の人間の意思の産物ではないことを示すことだ。
 (中共に関する最近の他の著作も、毛沢東を、このより広範な文脈の中で規定することを追求している。
 ロデリック・マクファーカー(Roderick MacFarquhar)<(注77)(コラム#3275)>による『毛沢東の最後の革命(Mao’s Last Revolution)』は、文化大革命の暗黒は、毛沢東一人によって創造されたのではなく、「つつましい(decent)」首相たる周恩来と「改革家(reformist)」たるトウ小平を含むところの、彼の全指導部が共犯となって創造されたことを示している。」(γ)
 (注77)1930年~。英陸軍勤務の後、オックスフォード大卒。ハーヴァード大修士(極東地域研究)。ジャーナリストを経て短期間下院議員(労働党)。その後、ロンドン大で博士号取得。次いでハーヴァード大に移り、現在、教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roderick_MacFarquhar
 人民共和国が建国されてすぐ、懲罰的諸課税が経済を麻痺させた。そして、失業は増えた。
 この体制は、「悪しき諸階級」の構成員というレッテルを貼られた人々に対する乱痴気騒ぎの暴力を既に解き放っていた。
 1947年から52年の間に、土地改革は、搾取者という範疇に入れられた150万人から200万人の田舎の住民達を殺した。・・・
 この残忍な大騒動のわずか2年後の1954年、共産党が再配分したばかりの土地は集団化によって再度奪われた。・・・
 1950年代初の「大恐怖時代(Great Terror)」に、ディコッターの推定では、200万人を超える都市住民が死んだ。・・・
 米国に対する中共の象徴的大勝利と喧伝されたけれど、朝鮮戦争は、幾ばくかの者は零度以下の諸状況の中を裸足で行進しなければならなかったところの、地上の兵士達の恐るべき犠牲のもとで遂行されたものだ。
 その間、非軍人達は、この戦争努力のためのカネを確保すべく圧力をかけられた。
 貧乏なのでと懇願した一人の農民はこう言われた。
 「生きていようと死んでいようと、お前は寄付するんだ」と。
 (結局、彼は自ら溺死した。)
 1956年に、毛沢東は不平分子を招いてこの体制の欠点について議論させた<(注78)>。
 (注78)百花斉放百家争鳴。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%8A%B1%E6%96%89%E6%94%BE%E7%99%BE%E5%AE%B6%E4%BA%89%E9%B3%B4
 一年も経たないうちに、不平の激しさに衝撃を受けた毛沢東は、これら批判家達に敵対的になった。
 何十万もの人々が「右派(Rightists)」であるとして非難された<(注79)>。
 (注79)反右派闘争。「1958年には55万人の右派が辺境への労働改造や失職などの憂き目に遭い、あるいは死亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%8F%B3%E6%B4%BE%E9%97%98%E4%BA%89
 多くが拷問と飢餓だらけの労働収容所群へ送られた。
 <また、この間、>104人のライ病患者が病院に閉じ込められ、焼死させられる<といったこともあった。」(α)
(続く)