太田述正コラム#6451(2013.9.14)
<啓蒙主義と人間主義(その4)>(2013.12.30公開)
 (6)パグデンの啓蒙主義論
  ア 総論
「アダム・スミスは、人類の歴史の中で最も重要な二つの出来事はアメリカ大陸と喜望峰を回って東インド諸島へという航路の発見だったと主張した。・・・
 人類は、18世紀において、何人かの偉大な思想家達の心の中だけでなく、根本的に物理的な方法でも、より緊密に一緒になったのだ。」(F)
 「パグデンは、欧州人達が世界のその他の人々と何を共有しているかを学ぶことによって近代人になったことを示す。・・・
 「人間についての科学(science of man)」を明確に表現する試みは、冒険的航海者達が太平洋の至る所で遭遇したところの、変わった人々や変わった習慣によって情報を与えられるとともに、これらと突き合わして検証された。」(H)
→パグデンが、これを、啓蒙主義全体の説明に用いようとしたのか、それとも、イギリス的啓蒙主義(後出)の説明に用いようとしたのか、今一つ判然としません。
 なお、すぐ後に出て来る、欧州的啓蒙主義の説明は極めて分かりにくいと思いますが、イギリス的啓蒙主義を理解するためには避けて通れないので、ご容赦ください。(太田)
  イ 二種類の啓蒙主義
   –欧州的啓蒙主義–
 「アンソニー・パグデンは、いくつもの国において、目的と方法論において概ね似ていたところの「啓蒙主義」が実際に生じた、と信じる陣営にほぼ属する。
 彼のは「長い18世紀」の啓蒙主義だ。
 それは、普遍主義(universalism)の理想・・当時の欧州において四海同胞主義(cosmopolitanism)(我々が「世界市民」であるとの観念)とも時々言及された・・と科学主義の理想という、懐疑主義(scepticism)という特徴がある(typified)。
 これは、普遍的な人間の本性(nature)が、ニュートン力学によって玉突台の上を跳飛しまくるビリヤードの球群のような正確性と予見可能性でもって、哲学によって分析できる、という見解だ。
 このほか、・・・パグデンは、当時、「自由思考(freethinking)」と呼ばれ、現在は無神論と呼ばれているものへ向けての次第に募る趨勢についても指摘(identify)する。
 ホッブスが(その中にモーゼの死が出てくる以上、どうして彼が五書(Pentateuch)の著書たりえるのかといった)批判的分析でもって聖書を読んだことから始まり、ドルバック男爵(Baron d’Holbach)<(注14)>による、(どうして我々は聖書が真実であると分かるのか。それは、聖書が、第2テモテ書(II Timothy)3:16で、聖書の中の言葉(scripture)には神の息がかかっている(God-breathed)としているからだといった)おぼこな神学の悪循環を指摘(identify)したところの、イエス・キリストに関する批判的歴史書に至るまで、宗教ないしは少なくとも在来の宗教的権威に対する、肌で感じられる次第に増大する不信感が存在したのだ。」(B)
 (注14)1723~89年。「ドイツ出身でフランス語で著作活動をした唯物論哲学者。・・・オランダのライデン大学で法学を学ぶ。・・・ヴォルテール流の理神論や汎神論ではなく、もっとも早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF
 「<なお、>パグデンは、イスラエルの業績には触れていない・・・。」(C)
 「パグデンは、啓蒙主義的四海同胞主義は「極め付きに貴族的」であったと示唆する。
 この主義が、民主主義が群衆統治(mob rule)に堕してしまうことを畏れ、しかるがゆえに、真の民主主義ならぬ「啓蒙された専制主義」を支持する傾向がよりあったところの、人々の「共通の情熱(passions)」にしばしば敵意を抱く「選良自認者」達によってもっぱら推進された、という意味で・・。
 このような諸見解は、ジョナサン・イスラエルであれば、さしずめ、主流派の啓蒙主義にもっぱら属する、と執拗に主張することだろう。
 <対照的に、>急進派達は、このような民主主義に対する恐怖は抱いておらず、イスラエルから見れば、彼らこそ真の四海同朋主義者達なのだ。
 EUが啓蒙主義四海同朋主義の近代的体現化である、とのパグデンの見方は、この議論の文脈の中では効果的だ(telling)。
 貴族的四海同朋主義の諸理想を表現した制度で、EU以上のものは殆んど存在しない。
 それは、上意下達の四海同朋主義の形を打ち立てようとする政治的選良によって主として操縦されるプロジェクトであって、しばしば、欧州の人々の民主主義的な願いに反して追求されており、欧州の人々「共通の情熱」は、多くの向きから、18世紀におけると同様、軽蔑されている。」(C)
→EUに対するこのようなパグデンの否定的な見方は、イギリス人特有のもの(コラム#省略)ですが、私見では、イギリス人選良だって民主主義嫌いでは欧州人の人語に落ちない(コラム#91)のであり、欧州の選良のそれとの違いは、イギリスのように自由主義のインフラが整備されていた所における民主主義嫌いなのか欧州のようにかかるインフレが整備されていなかった所における民主主義嫌いなのか、の違いに「過ぎない」以上、EUを批判するのであれば、彼は、それが反民主主義的である、という点以外の理由を挙げるべきでした。(太田)
 「パグデンは、「少なくとも欧米において、教育を受けた人々の大部分が受け入れることができる」四海同朋的諸価値とは、「全ての妥当(reasonable)で合理的(rational)な人間なら、その宗教的信条や民族的忠誠(allegiance)がどうであれ」、その下で「合意できるところの、科学に立脚した普遍法のための前提群(premises)」を探求した結果<として得られるもの>である、と主張する。
 この物語の中では、サミュエル・プーフェンドルフ(Samuel Pufendorf)<(注15)(コラム#6182)>、クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)<(注16)>、エメール・デ・ヴァッテル(Emer de Vattel)、そしてイマヌエル・カント(Immanuel Kant)<(コラム#1162、1575、1701、3148、3152、3407、3622、3624、3702、3724、3754、4038、4076、4080、4334、4338、4412、4864、4866、4886、5236、5717、6031)>が先頭に立つ。」(H)
 (注15)1632~94年。「ドイツの法学者、・・・<1648年の>ウェストファリア条約で各<領邦>の諸侯権が確立すると、普遍的な「書かれた理性」たるローマ法はその権威を失墜し、新たな「理性法」が要求された。この要求に対し、プーフェンドルフは世俗的自然法論を展開した。彼はトマス・ホッブズと同様に「自己保存本能」を出発点としたが、人間の無力さゆえに他人の助力を要するとして、<ホッブスとは違って、>「自然状態」は家族結合のような社会関係であるとし、完全な闘争状態を否定した。しかし、この自然状態が宗教的な内面の良心に依るだけでは不安定であり、それゆえに社会契約によって国家を形成し、その権力によって平和と安全…国民の福祉を実現するべきであると説いた。このような自然法論は、人間の本性から論証していくという点で[神の意思を自然法の法源と<するトマス・アクィナス以来の>]自然法論の世俗化をもたらし<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95 ([]内)
 (注16)1679~1754年。ドイツの[哲学者]。「イェーナ大学・ライプツィヒ大学で哲学と数学[と哲学]を修め<る。>」[ドイツの啓蒙的合理性の頂点を代表する人物であり、初めてラテン語だけでなくドイツ語でも論文を書いたことでも知られる。]「ライプニッツからカントへの橋渡し的存在。」(彼の法理論については分からなかった。(太田))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95
http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Wolff_(philosopher) ([]内)
 ライプニッツ(1646~1716年)はドイツ人であり、「哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。・・・学の傾向としては、・・・大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、<イギリス>の経験論にも深く学び、・・・精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論<でもって>合理論、経験論の対立を<克服>しようとした」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84
 (注17)1714~67年。「スイス出身の国際法学者。・・・国家の主権を中心とする体系的な国際法理論<を構築>した。ヴァッテルは対内的には抵抗権を認めていたが、対外的には内政不干渉の原則を主張しており、結果的にこれは<米>独立戦争に法的根拠を与えた。」
https://sites.google.com/site/kazu62security/yan-jiu-cheng-guo/yan-jiu-bian/emeru-de-vu-atteru-emer-de-vattel
 (注18)1724~1804年。「初期のカントの関心は自然哲学にむかった。特にニュートンの自然哲学に彼は関心をも<った。>・・・一方で、カントはイギリス経験論を受容し、ことにヒュームの懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは・・・ライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、・・・自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。また、カントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。・・・従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を人間それ自身の探求のために再定義した・・・認識論における「コペルニクス的転回」・・・は有名<。>・・・ドイツ観念論哲学の祖ともされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88
(続く)