太田述正コラム#6463(2013.9.20)
<啓蒙主義と人間主義(その10)>(2014.1.5公開)
3 終わりに代えて
「彼の前著の『Worlds at War』の中で、パグデンは、「2500年にわたる東西間の闘争」なる疑わしい説明を生み出した。
 その「文明の衝突」的感情の木魂が今回の本にも見出だせる。
 例えば、啓蒙主義が起こらず、欧州が最終的に「東に存在したところの、何世紀にもわたった古よりのオスマン帝国」によって征服されたとしたら、という架空の歴史が描かれる結論部分がそうだ。」(C)
 「それは、誰も自分で考えることができず、預言者と彼の諸法に耳を傾ける欧州であり、欧州は進歩することができない文明となり、それはいかなる種類の文明でも全くなくなるのだ」、と。・・・
 18世紀に欧州ではフィロゾーフ(philosophe)<(注41)>達がこの問題を解決した、とパグデンは考える。
 (注41)フランスの18世紀における啓蒙主義者たる哲学者や知識人を指す言葉
http://ejje.weblio.jp/content/philosophe
であり、パグデンはヒュームやアダム・スミスを啓蒙主義者の典型としていることからすれば、書評子による言葉の誤用であると考えられる。
 こうして、我々欧米に住む者達は、今なお、残りの世界が<我々に>追い付くのを待っている、と。」(F)
→ここは、パグデンのとんでもない認識違いというものです。
 「啓蒙主義・・・プロジェクトの中心は、「感情(sentiment)」の観念<であり、>・・・それは、我々に共通する人間性、及び、我々の共感(sympathy)を覚えることへの本能的欲求、についての生来的理解なの」(前出)であるとすれば、それは日本文明の核心たる人間主義そのものなのであって、イギリス(拡大英国を含む)が本来的に人間主義「的」文明の社会であったとすれば、日本はそれ以上の、本来的に人間主義文明の社会であったからです。
 むしろ、日本こそが、イギリスや仏教国/旧仏教国が、まず人間主義社会へと成熟し、次いでその他の諸国がそうなるのを待ち望んでいるのです。
 なお、バグデンが欧米(West)を一括りにしているのも誤りなのであって、人間主義度で言えば、イギリス(拡大英国を含む)に比べて、欧州諸国/米国は、イギリスとは文明が異なることもあり、現在でも、人間主義度において、大いに遜色がある、と言うべきでしょう。(太田)
 「パグデンは、前著・・・の中で、議論のあるところだが、「ペルシャ人とギリシャ人、或いはアジア人と欧州人を分かつものは、ささいな政治的差異よりもっと深遠な何物かだった。それは、世界についての一つの見方であり、人間らしくあり、そして生きるということはどういうことか、についての理解だった」と語ることで、古からの、そしてなお続いている緊張(tension)について記した。
 この<本>の中で、彼はこのテーマを発展させるのだ。」(G)
→同じ白人種たるところの、ペルシャ人とギリシャ人の差、より広くは、欧米人と中東・北アフリカ人との差、など、あってなきがごとしである、というのが申し上げたい第一点です。
 そして、アジア人を、仏教徒及び神道「信者」へと限定的に置き換えれば、彼らの方が欧米人に比べて人間主義度が高く、従ってパグデンの啓蒙主義の定義に即せば、より啓蒙主義的である、という差がある・・パグデンの認識とは正反対・・というのが申し上げたい第二点です。(太田)
⇒このシリーズを総括しましょう。
 パグデンや書評子達の議論がすっきりしないのは、彼らが、押しなべて、アングロサクソン(イギリス)文明と欧州文明の違いを認めず、(或いは認めないふりをして、)欧米文明(Western civilization)と両者を一括りにしていることが第一の理由であり、もう一つには欧米語、例えば英語には、enlightenmentという単語しかないために、啓蒙(世俗化)と悟り(人間主義化)を区別するのが困難であることが第二の理由です。
http://ejje.weblio.jp/content/%E6%82%9F%E3%82%8A
 (啓蒙と悟りを区別しなければならない場合は、前者にはChristian enlightenment、後者にはBuddhist enlightenmentという言葉を充てることが考えられます。)
 以上を踏まえれば、私見では、下に掲げた感じになりそうです。
 読むのに一苦労でしょうが、あしからず。
 欧州文明は、カトリシズムと合理論の文明であるプロト欧州文明の地域において、宗教改革を契機として成立した新興文明であって、カトリシズムないしプロテスタンティズムからの無神論化ないし世俗化、すなわちChristian enlightenmentの下、キリスト教の変形物たる民主主義独裁の諸形態(ナショナリズム、共産主義、スターリニズム、ファシズム)を次々に生み出して行った。
 他方、アングロサクソン文明は、個人主義(≒利己主義)と(恐らく自然宗教に由来するところの)人間主義的、及び、(これらも恐らく自然宗教に由来するところの)自由主義(≒コモンロー)と経験論の文明だ。
 プロト欧州文明に属さず、宗教改革もなかったアングロサクソン文明ではChristian enlightenmentが起きるはずがない以上、18世紀のスコットランドの思想家達は、Christian enlightenmentの旗手などではないのであって、彼らは、単にアングロサクソン文明のBuddhist enlightenment性を「発見」しただけのことだったと解される。
 しかし、Buddhist enlightenment性に関しては、アングロサクソン文明は日本文明に比べて徹底性を欠いている以上、アングロサクソン文明の人類への最高の貢献は、その自由主義と経験論にあると言えよう。
 ちなみに、アングロサクソン文明特有の個人主義は、それに着目したスコットランド人たるアダム・スミスの手で、経済学、すなわち社会科学の生誕を人類史上初めてもたらした点には意義があるけれど、個人主義だけでは、市場を含め、いかなる人間社会も成り立ちえない、という意味で、個人主義だけを前提にしている限り、社会科学は疑似科学にとどまるのであって、かかる方法論的個人主義を脱した時に、初めて社会科学は科学たりうる、と言えよう。
(完)