太田述正コラム#6467(2013.9.22)
<英国の植民地統治(その2)>(2014.1.7公開)
 (2)大英帝国の全般的危機
 「19世紀後半において、大英帝国の両端であるところの、インドとジャマイカで、<前者での>1857年の蜂起<(注1)>によって始まり、1865年のモラント湾(Morant Bay)<(注2)>で終わった危機が発生した。
 (注1)セポイの反乱(叛乱=乱)(インド大反乱(Indian Mutiny))。コラム81、208、(729)、893、1677、1769、1793、1847、1882、2030、3561、4416、5035、5164、5652。
 (注2)モラント湾の暴動(Morant Bay rebellion=ジャマイカ事件)。
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%9A%B4%E5%8B%95
 ジャマイカ島東部における黒人200~300人の反乱。黒人400名以上が殺害されて反乱は終息したが、総督は解任され、ジャマイカは英直轄領となった。1866年にジョン・スチュアート・ミルが反乱終息の際の残虐行為を調査する委員会を設立、逆に総督を擁護する委員会をトーマス・カーライル、ジョン・ラスキン、チャールズ・ディケンズ、アルフレッド・テニソンらが設立する、という騒ぎになった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Morant_Bay_rebellion 
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bogle
 これらの危機の後に行われたイデオロギー的内省の中で、植民地的任務(colonial mission)の総体が再定義された。
 文明化から保存(conservation)へ、そして、進歩から秩序へ、と。」(C)
 (3)メインの理論
 各書評子の表記についての紹介ぶりに、それぞれ捨て難いものがあるので、重複を厭わず、それらを順番に紹介することにしました。
 ちなみに、メイン(Henry James Sumner Maine。1822~88年)は、「イギリスの法学者・社会学者・政治評論家。・・・1861年、彼は・・・『古代法』(Ancient Law)<を>発表し<、>・・・家父長制血縁集団から発生した身分<[status]>法が、集団の連合による社会の形成によって契約<[contract]>法へと進化していく過程を描くとともに、血縁的関係と地縁的関係という対立概念の存在を唱え<た。>」[ケンブリッジ大卒。]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3
(9月19日アクセス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_James_Sumner_Maine ([]内)
という人物です。
 「メインは、欧米を非欧米と、普遍的文明を地方的慣習と、そして枢要にも、入植者(settler)を土着民(native)と、区別し、土着主義の理論の基礎を整えた。
 入植者が近代的であるとすれば土着民はそうではなく、入植者が歴史によって定義されるとすれば土着民は地理によって定義され、近代的諸政体が立法(legislation)と処罰(sanction)によって定義されるとすれば土着の諸政体は習慣的順守によって定義される、と。
 セポイの反乱から数年内に、メインはインド副王の行政委員会(Executive Council)の法メンバーのポストに就いた。
 英インド官僚(India Service)、いや、英植民地官僚(Colonial Service)になろうとする者は、彼の諸著作を読まなければならない、ということになった。
 インドのリオール(Lyall)から、マラヤのスウェッテナム(Swettenham)、ナタール(Natal)のシェップストーン(Shepstone)、エジプトのクローマー(Cromer)、ナイジェリアとウガンダのルガード(Lugard)、スーダンのハロルド・マクマイケル(Harold MacMichael)、タンガニーカのドナルド・キャメロン(Donald Cameron)、に至るまで、大英帝国中の植民地行政官達は、メインの主張、とりわけ『古代法』(1861年)・・法理論(jurisprudence)に関する最初のベストセラー本・・の中で展開されたそれらを吸収し、それらを諸政策へと翻訳した。
 その結果は、「土着民」の再発明だった。
 土着民の作用(agency)と法人格(legal personality)は、爾後、植民地学において部族的とみなされることとなり、植民地当局によってそのように決定されることとなった。
 部族主義とは具象化された民族性だ。・・・
 それはまた、1857年後のインドで卵をかえされ、ベルリン会議(Berlin Congress)の後に征服されたアフリカの各部分に全面的に適用されることとなる統治形態(form of government)<(注3)>をもたらした。
 (注3)コンゴの植民地化を巡るベルギーとポルトガルの対立を契機として「1884年11月15日から1885年2月26日までドイツ帝国の首都ベルリンで開催された国際会議。列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%88%86%E5%89%B2)
 これを構築した人々は、この統治の形態(mode)・・彼らは、それを「間接<(間接統治)>」と言及した・・は、弱い国家<たる植民対象たる国家>に資する、<宗主国の、>温和(benign)で表面的(superficial)な影響力しか持たないところの、諸資源の不足(dearth)に対する現実的な(pragmatic)、解決法以上のものではない、と主張した。
 しかし、間接統治は、大英帝国の地理的極限たる2地点(extremes)における、・・すなわち、インド大反乱から始まり1865年のジャマイカでのモラント湾の反乱に至る・・<大英帝国に対する>際立った諸挑戦、に対する対応策だった。
 この二つの出来事は、<植民地化の>任務と正当化に係る危機を生み出した。
 ローマ帝国を範例としたところの、同化プロジェクトは失敗したように見えた。
 爾後の内省の季節の中で、植民地化任務に関し、文明化から保全へ、そして進歩から秩序へ、と変化が起こった。
 1757年から1857年の間に、南アジアの陸塊の3分の2の住民達は、直接的に臣民として、或いは間接的に保護的管理(protective custody)の下で諸侯国として、東インド会社の統治の下に置かれるに至った。
 功利的かつ伝道的諸アジェンダの主要な諸輪郭・・植民地プロジェクトのイデオロギー的タービン群・・は1850年には明確になっていた。
 それは、ムガール帝国宮廷を廃止し、英国の諸法とテクノロジーを、キリスト教とともにインドに押し付ける、というものだった。
 しかし、1857年には、<東インド会社隷下の>ベンガル軍(Bengal Army)のセポイは、139,000人中、7,796人を除いて、英国の主人達に背いたのだ。
 メインの言葉によれば、概ね、「土着のインド人の宗教的かつ社会的信条」の本質を理解するのに失敗した結果、自由主義的な功利主義的諸観念は手ひどい一撃を食らったし、福音主義者達は退却に移ったのだ。
 メインは、東洋学者(Olientalist)の聖俗文書群への没頭から、日常生活の研究へと焦点の移行を呼びかけた。
 土着の諸制度の論理は、地方の諸習慣と諸伝統の中に見出されるべきだ、と彼は主張した。
 それらは、東洋学者達が探しに行きがちな沿岸部よりも、奥地において、より多く存在する、と。・・・
 功利主義者達に苦悩(woe)が生じたのは、この「真のインド」について無知であったからだった。
 彼らは、「インド人は、教育委員会(School Board)群と師範学校(Normal School)群さえあれば、イギリス人に仕立て上げられる」、或いは、「政治諸制度は、いかなる気候の下でも耐久性を保証され全てのコミュニティを裨益するところの、蒸気機械のように輸入することができる」と結論付けていたのだった。
 <そこに生起したインド大反乱>は、<インドに>異なった発展経路を辿らせることを強力に促したのだった。」(E)
(続く)