太田述正コラム#6477(2013.9.27)
<キリスト教が興隆したわけ(その1)>(2014.1.12公開)
1 始めに
 セリナ・オグレイディ(Selina O’Grady)の『そして人が神をつくった–イエスの時代の王達、カルト群、そして諸征服(And Man Created God: Kings, Cults and Conquests at the Time of Jesus)』の概要を書評をもとにご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 キリスト教文明であるところの、欧州文明と米国文明の両文明こそ、近現代の世界の不幸・・失われた人命で計算・・の大部分の元凶である・・アングロサクソン文明がもたらした大英帝国の手抜き統治がもたらした不幸など、(また、アルカーイダ系テロリストがもたらした不幸などはちろんのこと、)相対的には取るに足らない・・、というのが私の最近到達した考えであるわけですが、それだけに、両文明の基調を形作っているところのキリスト教を解明する試みを、今後ともあらゆる機会を捉えて、(偏見を抱くことなく)続けていかなければならない、と思うのです。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2012/dec/20/and-man-created-god-selina-ogrady-review
(12月21日アクセス)
B:http://www.scmp.com/lifestyle/books/article/1260717/book-review-and-man-created-god-selina-ogrady
(9月24日アクセス)
C:http://www.economist.com/node/21562887
D:http://www.womensbookshop.co.nz/product/648418-AndManCreatedGodKingsCultsandConquestsattheTimeofJesus-9781848874305
E:http://carlton-uca.org/news/2013/02/17/who-are-we-whats-our-identity/
 例によって、一般公開していない下掲も、抗議の念を込めて掲げておきます。
http://www.thesundaytimes.co.uk/sto/culture/books/non_fiction/article1108796.ece
 グレイディは、英国の放送人で著述家(C)ですが、自選写真を見る限り、なかなか感じのいい気品あるおばさまです。
 彼女自身の自己紹介によれば、ウスペンスキー(Ouspensky。コラム#5276)のカルトに入れ込んでいたところの、ユダヤ系米国人であった母親・・結婚の際にカトリックに改宗・・と、恐ろしく信心深いカトリック教徒のアイルランド系の父親の間に生まれ、ロンドンで育った彼女は、子供の時に無神論者になるものの、宗教的信条や超絶的なもの(transcendent)に共感を覚えかつ魅了され続けて現在に至っているとのことです。
 そして、サンフランシスコ・クロニクル紙やLIterary Review誌にしばしば寄稿するとともに、英国のTVやラジオの宗教・道徳関係の番組作成に携わってきたのだそうです。
 彼女には、これまで、2冊の共編著があります。
http://www.goodreads.com/author/show/781478.Selina_O_Grady
2 キリスト教が興隆したわけ
 (1)序
 「セリナ・オグレイディの、この広大無辺にして知的な本は、エドワード・ギボン(Edward Gibbon)やフリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)のような多彩な思想家達を悩ませた問題に取り組んでいる。
 どうやって1世紀のユダヤ(Judaea)における黙示録的宗派が、2000年にもわたって欧米を政治的かつ哲学的に支配する帝国的権力へと変貌したのか、という・・。」(A)
 「<換言すれば、それは、>小さなイエスのカルトが、イシス(Isis)女神<(コラム#5132、6289)>、奇跡の仕事人(worker)たるアポロニウス(後出)、そしてアウグストゥス(Augustus)<(コラム#2052、3473、3556、3928、5388、5687)>の個人崇拝カルトにさえ、そちらの方がはるかに人気のある宗教的忠誠対象(allegiance)であったというのに、それらに勝利して世界に冠たる(dominant)宗教になったのはどうしてか<、という問題だ>。」(D)
→ずっと以前にも記したことがありますが、小学生の時、カイロの英国系の小学校の宗教の授業でキリスト教について学んだ際に、新旧約聖書をフィクションとして楽しんで読みつつも、その内容の荒唐無稽さから、子供ながらも、どうしてこんな宗教を信じている人がいるのか、と思って以来、この疑問は、私自身にとっても、現在に至るまで、心中に蟠っています。(太田)
 「オグレイディは、古代世界の、何千もの宗教、迷信、カルト、そして、哲学者、更には何万人もの預言者、説教者、グルや救世主の中から、一掴みだけが勝利し、残りは忘却の彼方へ消え去ったのかを知りたいと思った。
 就中、どうしてイエス・カルトが、かくも人目につかず(obscure)、初期においては不運であった(inauspicious)にもかかわらず、逆境を跳ねのけてコンスタンティヌス(Constantine)、次いでテオドシウス(Theodosius)の下で欧米世界の公的宗教になったのだろうか、と。
 こんな類の成功を達成するためには、このカルトは、その地方的基盤を超えてアピールするとともに、単一の部族や一人の政治的選良だけではなく、全ての人々に対して語り掛ける必要があった。
 聖パウロの疲れを知らない宣教的活動・・ユダヤ属州のカルトを普遍的宗教へと再包装する活動・・こそ、キリスト教が目覚ましくもローマ帝国を乗っ取る準備を行ったのだ。」(B)
 「イエスが生まれた時の世界は沸き返っていた。
 4つの大帝国が全球化の痙攣を経験しつつあった。
 欧州、北アフリカ、中東、及びアジアにおいて、多民族諸都市が全域に族生しつつあったところ、古よりの忠誠(allegiance)や家族、村、そして部族の諸伝統がずたずたにされつつあった。 皇帝達は、忠実な臣民達を創造しようともがき、商人達は新世界秩序の中に自分達の場所を見出そうともがき、根なし草になった者達は新たな諸コミュニティを探した。
 彼らは、全て、宗教に目を向けてその解決を求め、神々は彼らの忠誠を求めて競い合った。
 これは、混乱した(disrupted)諸社会の周りで角突きあわせていたところの、神々、救世主達、神官達、そして戦士達が充満していた世界だった。・・・
 ローマでは、アウグストゥスが、彼の素晴らしい報道担当顧問(spin doctor)達によって神へと変貌されられた。
 現在のスーダンでは、肉付きの良い戦士女王たるアマニレナス(Amanirenas)<(注1)>が彼女の神としての地位を活用し、その軍勢でもってローマ軍を懲らしめた。
 (注1)古代スーダン(メロエ(Meroe))のクシュ(Kush)王国の隻眼の女王。女王:BC40頃~10年頃。AD27~22年にわたり、エジプトでローマ軍と戦う。BC21/20年、ローマとの間で平和条約が締結された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Amanirenas
 クシュ王国は、紀元前8世紀にエジプトに攻め入り、エジプト第25王朝となるも、BC656年にエジプトから駆逐されていた。AD6世紀央に崩壊。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Kush
→クシュを前漢等と並ぶ帝国と持ち上げる欧州/地中海世界中心主義にも苦笑させられるところ、アマニレナスは、かつてエジプトを統治したことがあるクシュの女王だったのですから、多神教のエジプトにおいて、王も神とみなす伝統があった・・世界最初の一神教を始めたとされる紀元前14世紀のアメンホテプ4世(イクナトン)も、従って、実は二神教だった・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%974%E4%B8%96
ことに彼女も従った可能性は否定しませんが、オグレイディが、わざわざアマニレナスの「神としての地位」に言及したのは、後述するように、キリスト教生誕の時期のユニークさをプレイアップするための小細工としか私には思えません。(太田)
 そして、支那では、簒奪者の王莽(Wang Mang)<(注2)(コラム#1650、5104)>が、儒教に憑りつかれたことによって、皇位を得、そして失った。」(D)
 (注2)「王莽<(BC45~AD23年。皇帝:AD8~23年)は>・・・大司馬<(筆頭大臣)の時に>・・・儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥・符命(一種の預言書にあたるもの)に基づいた政策を実施<したが、>・・・<やがて、>天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。・・・王莽は周代の治世を理想とし、・・・国策を行った。だが、現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動も停止したため民衆の生活は<前>漢末以上に困窮し・・・生活の立ち行かなくなった農民の反乱(赤眉の乱)が続発<し、>・・・新は1代限りで滅亡した。・・・<しかし、>漢朝臣下の時代に王莽自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代皇帝に受け継がれ、即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。学・校という儒学の校舎を全国に設置して勉強を奨励させたのも王莽の治下であり、結果的に後漢期には儒学を学ぶ人物が多くなったとも言われる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD
→王莽以前に、前漢の元帝(BC74~BC33年。皇帝:BC48~BC33年)が、儒教を重視した政策を既に実施している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
こと、かつ、それより以前に、前漢の「武帝<が>・・・紀元前136年・・・、五経博士を設けた<ところ、>従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である<けれど、>ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化し<、>同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態にな<った>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99#.E6.BC.A2.E4.BB.A3
というわけで、既にBC2世紀には儒教が前漢の統治イデオロギーの中心的地位を占めるに至っていたわけですから、オグレイディの王莽評にはアマニレナス評同様、違和感を覚えます。(太田)
⇒「<BC>500年頃に(広く年代幅をとれば<BC>800年頃から<BC>200年にかけて)」のいわゆる枢軸の時代(コラム#1203、1204、1205、1210、6305)を「世界史的、文明史的な一大エポック」とするヤスパースの指摘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
に注目し、私が、それを人間主義への回帰の時代である、という独自の見解を打ち出していることはご存知の通りです。
 これに対し、BC1世紀~AD1世紀を重視するオグレイディは、無神論者であるにもかかわらず、キリスト教中心主義的な歪んだ歴史観を抱いている、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)