太田述正コラム#6513(2013.10.15)
<バングラデシュ虐殺事件と米国(その6)>(2014.1.30公開)
 –ブラッド電信–
「アーチャー・ブラッド・・・と彼の部下達は<東パキスタンにおける>暴力に怖気を振るった。・・・
 米国がスポンサーとなっていた軍隊がふるった諸兵器でベンガル人達が殺されているのに、米国政府はそれを止めるために何もしておらず、この虐殺の共犯者になってしまっている、と。
 絶望したブラッドの若い部下達が「反対電信」を起案した。
 ヴェトナム戦争の後、国務省で改革が始められ、外交官達に、公式政策への反対を秘密裏にしかし率直に意見具申することを認めた。
 バスは、これを、その最も重要な署名者の名前をとって「ブラッド電信」と呼ぶ。・・・
 ブラッドの総領事館からの東ベンガルにおけるこの不都合なる虐殺についての電信は、<ニクソンとキッシンジャーという>二人の男を激怒させた。」(A)
 「「東パキスタンにおける最近の諸展開に係る米国の政策が、広義に定義された我々の倫理的諸利益にも狭義に定義された我々の諸国益にも資さないという我々の確信でもって、ダッカ米総領事館、ダッカ米国際開発庁(USAID)<(注8)>、ダッカ米広報文化局(USIS)<(注9)>の数多くの職員達は、この政策の基本的諸様相に強い反対を提起する。」
 (注8)「1961年に設置された<米>国のほぼすべての非軍事の海外援助・・・を行う政府組織である。大統領に直属した連邦部局であったが、1998年以降は国務省の監督下に置かれ<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%8B%E7%99%BA%E5%BA%81
 (注9)1953~99年の間存在した、大統領に直属した米国政府の対外広報機関。現在は、米国務省の広報・公共外交担当次官(Under Secretary of State for Public Affairs and Public Diplomac)の職責となっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Information_Agency
 私の印象では、1999年の少し前に、米国政府の対外広報活動それ自体が大幅に縮小されている。それまでは、入庁数年後から、私にまで、USIS隷下の東京のアメリカンセンターから米国政府や議会の文書が頻繁に送付され、同センターで開催される米国の学者等による講演会への招待も頻繁になされていたが、突然、文書送付も講演会への招待もなくなった記憶がある。
 以上は、ブラッド電信として知られている、瞠目すべき外交公信の最初の一節からだ。
 これは、米総領事のアーチャー・ブラッドによってダッカからワシントンへ1971年4月6日に送られたものだが、それは、安全保障担当補佐官のヘンリー・キッシンジャーも大統領のリチャード・ニクソンのどちらもがまさに聞きたくなかった事柄を表明していた。
 ダッカの米職員達20人によって署名されたこの電信は、パキスタン軍部による東におけるナショナリズム感情を抑圧するための弾圧であったところの、探照灯作戦(Operation Searchlight)に対する反応だった。
 この弾圧は、ダッカの進歩主義的知識人達と学生達に対する「選択的ジェノサイド」から始まった。
 外交における独立性の見事な一つの事例と言えるが、この電信は、疑いなく極悪のソ連でさえ饒舌に抗議していたところの、諸残虐行為に対して無関心を決め込んでいた米外交政策の「倫理的破産」を非難したわけだ。
 暴力の対象となっていたシェイク・ムジブ<ル・ラーマン>率いる人々は、親欧米の改革主義者であったのだから、米国政府の沈黙は二重に皮肉なものだった。」(E)
 <電信の文面をもう少し紹介しよう。>
 「我らの政府は民主主義の抑圧を非難してこなかった。
 我らの政府は諸残虐行為を非難してこなかった。
 我らの政府は、<東パキスタンの>市民達を守る力強い諸措置をとってこなかった。
 それと同時に、<我らの政府は、>西パキ人達(West Pak)が支配的であるところの政府を宥めるゴマをするために、そして、西パキ人達に対して予想される当然の報い的な否定的な国際的逆宣伝の緩和のために、後ろ向きの姿勢をとっている…。
 我々は、専門的な公僕として、現在の政策に対する反対を表明し、自由世界の倫理的指導者としての我々の国家の地位を救済するために、当地における我々の真実で永続的な諸利益を定義することと我々の諸政策の方向を切り替えることができるものと熱烈に希求している。」(J)
(続く)