太田述正コラム#6527(2013.10.22)
<大英帝国の崩壊と英諜報機関(その4)>(2014.2.6公開)
  ウ マライ
「「マライ非常事態、ないしは「共産主義者蜂起」、の勃発は、<英>諜報の劇的なる失敗の代表例だ。」とウォルトンは記す。
 この償いをするために、英国は、「駆り出し部隊(Ferret Force)<(注6)>」等を、まさに第二次世界大戦中に日本と戦うために武装させた人々に対して用いた。
 (注6)Ferret(フェレット)とは、「ケナガイタチ (polecat) の一種; 畜産品種で白毛; ウサギ・ネズミなどを穴から追い出すために飼育される」。
http://ejje.weblio.jp/content/ferret
 先の大戦中、英国は、日本に占領されたマライで、英工作員達とマライ人ゲリラ達からなるチームでもって日本と戦い続けた。
 マライ人ゲリラ達の主力は、マライ共産党が組織したものであり、漢人系マライ人の支援を受けていた。
 終戦後、英国はゲリラを解散させたが、マライ共産党隷下のゲリラは解散せず、反英蜂起を始めた。
 欧米人のプランテーション所有者3名が彼らに殺されるに及んで、英国はマライに非常事態を宣言し、共産党系以外の旧ゲリラ達を再招集して(英兵やグルカ兵を交えた)部隊群を編成し、共産党ゲリラ鎮圧作戦を開始した。
 この時、編成された部隊の一つが駆り出し部隊だった。
 この部隊は、1948年7月に編成され、6か月間存続した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ferret_Force
 ということは、英特殊部隊(SOE)<(注7)>によって訓練を受けた二つの武装勢力が、マライのジャングルで対峙(pitch)した、というわけだ。
 (注7)Special Operations Executive。ベーカー街非正規兵達(Baker Street Irregulars)と呼ばれることもあった。英内閣の承認に基づき、1940年7月22日に英経済戦争相によって、当初は、ナチスドイツに占領された欧州大陸で、枢軸勢力に対抗するために、スパイ、破壊工作、偵察を行うべく創設された機関。
http://en.wikipedia.org/wiki/Special_Operations_Executive
 
 この物語は、大英帝国の気まぐれなリアルポリティークがいかに機能するかを証するものだ。
 オサマ・ビンラディンだって、要するに、最初のカラシニコフ小銃を入手したのは米CIAからだった。
 これぞ、ウォルトンが描写するところの、<先の大戦終焉後の>プロセスの真逆を、もう一つの戦争、冷戦、の終焉後に辿ったものだ。」(B)
→単に、英国が先の大戦中にやったこと(=共産主義と協力)、米国が冷戦中にやったこと(=イスラム過激派と協力)、が間違っていた、というだけのことです。(太田)
  エ ケニア
 「マウマウ団(Mau Mau)<(コラム#609、610、3136、4208、5942、6251、6266、6482)>の<ケニア人>帰還兵達が昨年10月に英高等裁判所で勝訴した裁判<(コラム#6251)>によって我々が知ったことだが、ケニアにおける大英帝国の終焉は恥ずべきものであり、暴虐的なものだった。
 ジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta)<(注8)>は悪魔(Lucifer)そのもの、マウマウ団は「森からやってきた低劣な獣達(debased creatures)」、と描写され、彼らのうち1,000名が絞首刑を宣告された。
 (注8)1893?~1978年。「1952年にマウマウ団の乱に関係したとされ、またその一味であったとされ逮捕された。裁判官や通訳者などが不当にケニヤッタを扱ったとされる裁判は5ヶ月に及び、結果として7年間の重度労役処分とされ・・・結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった。1963年にケニアが独立すると初代首相となり、1年後に大統領制に移行するとそのまま大統領となった。大統領としてのケニヤッタは一貫して西側寄りの資本主義体制を堅持し、外資を積極導入し西側寄りの政策を取った。このためケニア経済は発展し、東アフリカの地域大国となっていった。一方で国内では独裁政治を行い、1969年には完全に与党ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)による一党制を敷くこととなった。また、自らの出身民族であり、ケニア最大民族でもあるキクユ人の優遇を行い、後の民族対立の発端となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%BF
 <この過程で、>20,000人のアフリカ人が死んだが、植民者たる入植者達の死者は32人だけだった。
→大英帝国の「終焉は恥ずべきものであり、暴虐的なものだった」だけでなく、「統治も終焉も恥ずべきものであり、暴虐的なものだった」のです。(太田)
 ウォルトンは、広範に行われていた拷問を認めたところの、「ボビー・」アースカイン(Erskine)<英陸軍>大将<(注9)>からの極秘書簡を引用する。
 (注9)General Sir George Watkin Eben James Erskine。1899~1965年。1953~54年に英東アフリカ軍司令官を務め、マウマウ団を鎮圧する鉄床作戦を指揮した。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Erskine
 「しかし、<植民地に係る>帝国的主張と冷戦の間で踊られたワルツの中で、<ケニアでの>1954年の鉄床(かなとこ)作戦(Operation Anvil)の何たるかを知っていた(see what it was)のはMI5だった。
 MI5は、<英>政治家達に、「我々は、マウマウ団の諸活動に共産主義者の介入を示唆する何物もないことを知っている」と助言した。」(B)
  オ 英米諜報協力
 「・・・第二次世界大戦の後、英諜報機関の栄光の日々が終わり、米国の相棒役を演じることになるのは明らかになった。
 それは、イランのモサデグの打倒から始まった。」(G)
 「共産主義の妖怪が、とりわけ(英国がその価値をブレッチリー・パーク(Bletchley Park)<(注10)>で証明したところの、)通信諜報(signals intelligence<=シギント>)に係る、保安分野での英米協力を促進した。
 (注10)「英バッキンガムシャー州ミルトン・キーンズ ブレッチリーにある庭園と邸宅・・・。第二次世界大戦期に政府暗号学校が置かれた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
 これに関する1946年のUKUSA協定<(注11)>は、誇示されているところの、英米特殊関係の、恐らく間違いなく最も生産的な様相だった。
 (注11)「<米>国の国家安全保障局(NSA)や<英国>の政府通信本部(GCHQ)など<米国と拡大英国4か国、計>5カ国の諜報機関が世界中に張り巡らしたシギントの設備や盗聴情報を、相互利用・共同利用する為に結んだ協定のことである。かつては秘密協定だったが、現在は条文の一部が公開されている。なおUKUSA協定グループのコンピューターネットワークはエシュロンと呼ばれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/UKUSA%E5%8D%94%E5%AE%9A
 もっとも、その存在は、その60年後になってようやく公的に認められたところだ。
 この<英米間の>取引は、金欠病の(cash-strapped)英国が引き続きスパイを行い、一方で米国は資金群、衛星群、そして電子機器を提供する、というものだった。
 米国は、お望みの土地、とりわけ、キプロスと香港の使用権を得たが、そこはソ連と中共を盗聴するために枢要だった。
 その結果、英国は、米国と更なる秘密諸協定を締結した。
 それには、米国がイラク等で使用するための巨大な滑走路群を建設することができるように、英領インド洋地域(British Indian Ocean Territory)を創設するために土着の島民達をディエゴ・ガルシア(Diego Garcia)から移転させることにつながったところの、決り悪い<米国との>協定も含まれている。
 面白い小主題は、<南米の>英領ガイアナ(British Guiana)におけるチェッディ・ジャガン(Cheddi Jagan)<(注12)>の追放に向けての<英米が手を携えた>諸努力から見え始めたことだが、米国政府が、しばしば、英国政府よりもネオ植民地主義的であったことだ。」(C)
 (注12)1918~97年。独立前の英領ガイアナで1953年から首席大臣(Chief Minister)、後には首相を務め、独立した後はガイアナの大統領を1992~97年の間務めた。ガイアナで「ガイアナ国家の父」と目されている。彼は、米国で歯科医教育を受けている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cheddi_Jagan
(続く)