太田述正コラム#0214(2003.12.23)
<天皇家の歴史観(その1)>

 天皇陛下は、70歳の誕生日を前にして、記者団のインタビューに臨まれ、まず過去70年間を振り返り
、「この70年の間には、多くの悲しい出来事がありました。最も悲しい出来事は、先の大戦で300万人以上の日本人の命が失われ、また、日本人以外の多くの外国の人々の命が失われたことです。さらにこの戦争では、戦後も原子爆弾による放射能や、ソビエト連邦への抑留などにより、多くの人々が犠牲となりました。」と発言された上で、質疑応答の中で、平和であったご自分の平成の最初の15年間とお父上の昭和天皇の即位後の15年間を比較され、「昭和の15年間はまことに厳しい期間でした。日本はこの期間、ほとんど断続的に中国と戦闘状態にありました。済南事件(注1)、張作霖爆殺事件、満州事変、上海事件、そして、昭和12年から20年まで継続する戦争がありました。さらに、昭和14年にはソビエト連邦軍との間にノモンハン事件が起こり、多くの犠牲者が出ました。国内では、5・15事件や2・26事件があり、また、5・15事件により、短期間ではありましたが大正年間から続いていた政党内閣も終わりを告げました(注2)。この15年間に首相、前首相、元首相、あわせて4人の命が奪われるという時代でした。その陰には厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村の姿がありました。そして、戦死者の数も増えていきました。・・沖縄県と言いますと、私どものまず念頭にあるのは、沖縄島、そして、伊江島で地上戦が行われ、非常に多くの、特に県民が犠牲になったということです。・・この沖縄・・で・・58年前に非常に大きな血が流されたということを常に考えずにはいられません。沖縄が復帰したのは31年前になりますが、これも平和条約が、日本との平和条約が発効してから20年後のことです。・・私にとっては、沖縄の歴史をひもとくということは、島津氏の血を受けているものとして心の痛むことでした。」とお答えになりました。

 (注1) 中国国民党による北伐の過程で、国民党軍が山東省済南市に入城した際、兵士が日本人経営の商店で略奪行為を行ったことをきっかけに、派兵されていた日本軍との間に衝突が起こり、その衝突の過程で、日本側に戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、被害戸数136戸に及ぶ被害が発生したが、この事件を済南事件という(http://www.history.gr.jp/showa/226.html及びhttp://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/santou.htm(以下の典拠は、すべて12月23日アクセス))。
     中国側ではこの事件を五三事件と呼び、日本軍は公然と国際法を破り、交渉に当たっていた国民党政府外交官ら17人の殺害をし、彼らを含め、中国側に死傷者およそ8,000人が発生した、としている(http://fpj.peopledaily.com.cn/2003/05/04/jp20030504_28514.html)。
     この事件の背景には、田中義一内閣の居留民保護のための山東出兵(1次??3次。1927??29年)があった(http://www.tabiken.com/history/doc/H/H183R200.HTM)。また、済南事件後、親日派に代わって親英米派が国民党政権を牛耳るようになる(http://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/hyakuisan38.html)。

 (注2) 張作霖爆殺事件(1928年)、満州事変(1931年)、上海事件(1932年。ミスプリでないとして、「事変」と言っておられない点は興味深い)、昭和12年から20年まで継続する戦争(1937??45年。支那事変、日華事変、あるいは日中戦争、といった名称をあえて使われなかった点は細心の注意を払われたということだろう)、ノモンハン事件(1939年)、5・15事件(1932年)、2・26事件(1936年)

 さて、最初のご発言は、書かれた紙をお読みになったものです(以上、陛下のご発言とお答えはhttp://www.asahi.com/national/update/1223/010.htmlによる)し、後のお答えも、恐らく事前に提出された質問に対して、周到に用意されたお答えを思い起こしながらお答えになったものだと思います。
 しかし、その中から陛下の歴史観がにじみ出ていると感じたのは私だけではありますまい。恐らくこの歴史観は、お父上の昭和天皇のご薫陶のたまものでもあるのでしょう。
 
 まず、支那事変に至る経緯の冒頭に済南事件が挙げられていることが注目されます。つまり、事件の背景たる山東出兵や、更にこの山東出兵の背景たる南京事件(注3)ではなく、日本側が支那側から被害を受けたこの済南事件(この事件で支那側も外交官等が殺害されたと主張しているが、根拠薄弱)が冒頭に挙げられていることです。

 (注3) 1927年、二百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の支那人暴徒が南京の各国領事館を襲撃し、日1英2米1伊1仏1デンマーク1が死亡した事件。このとき日本は無抵抗を貫いたが、揚子江上の米英軍艦艇は砲撃を行い、支那側はこの砲撃(ただし、日本も砲撃したことになっている)により軍民2000余が死傷したとしている。(http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo11.html
ちなみに、陛下のお答えの中に、(大虐殺があったかどうかが争われている)1937年の南京事件への言及がないのは、危うきに近寄られなかったというよりも、第一に陛下は日本側の被害を中心に論じておられること(本文で後述)と、そもそも南京事件が支那事変勃発後、同事変の過程で起こった事件であることから、言及されなかったということだろう。

(続く)