太田述正コラム#6553(2013.11.4)
<台湾史(その7)>(2014.2.19公開)
 「商人らは中国の日用雑貨を台湾に、台湾の米、砂糖、特産である樟脳などを中国に運び、台湾は中国の経済的な植民地、すなわち「国内植民地」であった。・・・
 <商人ら>は、商業組合の性格をも<った>、政府公認の独占的な存在<となり、>・・・「郊商」<と称されるようになった。>これらの「郊商」は特権と引き換えに、住民の蜂起や抵抗運動に際しては、ほとんどの場合において政府にくみして、鎮圧に加勢する「義民」の募集や、軍資金の献上などを通じて、政商への道を歩んだ。・・・
 アロー号事件<の後、>1856年10月に天津条約が結ばれた。清国政府は天津条約にもとづいて台湾の淡水・・・基隆・・・<他2港>をあいついで開港し、・・・キリスト教の布教も認めた。<(注14)>・・・
 (注14)「1842年8月29日、<英清>両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
 「天津条約(・・・Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と<露米英仏>諸外国間に締結された17条約の通称。・・・賠償(<英国>に対し400万両、フランスに対し200万両の銀)・・・外交官の北京駐在・・・外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権・・・外国艦船の揚子江通行の権利保障・・・キリスト教布教の自由と宣教師の保護・・・牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港・・・<等>を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、ロシアの仲介で1860年の北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島の英国への割譲が追加された。したがって1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1858%E5%B9%B4)
→オランダ、スペインもそうでしたが、欧米(除くイギリス(後述))の欧米外への進出は、軍事力を背景に商人と宣教師を尖兵として行われた醜悪なものであった、ということを改めて痛感させられますね。(太田)
 <そして、>1868年に起こった樟脳の集荷をめぐる、イギリス商人・・・<すなわち、>「洋行」・・・との紛糾の処理を境にして、イギリスの艦砲の威圧を前に、清国官憲に屈辱を忍ばせる形で解決された。このときに結ばれた協定の概要は、一、樟脳の官営を廃止し、外国人とその使用人は自由に売買できる。二、外国商人の台湾旅行を認める、三、これまでの教会の損害を賠償し、住民のキリスト教への誹謗を禁止する、四、宣教師は各地に布教と居住の権利を有する、五、内外人の紛糾は、清国官憲と英国領事の共同で裁判する、というものである。イギリスとの間の協定ではあるが、列強各国にも適用されている。・・・
 鄭氏政権<時代にキリスト教は>途絶えていた。阿片戦争後の18<61>年に、・・・<台湾への>カトリックの布教<が>再開<されていたが、>開港後の1865年にイギリス長老派教会が南部を中心に、また1872年にカナダ長老派教会が北部を中心に、キリスト教の布教を開始した。」(52~55)
→最後の一文にも、台湾以外にからむ件における伊藤の杜撰さが現われています。
 長老派はスコットランド由来の宗派であり、スコットランドからイギリスへ移民した人々を中心にイギリス長老派教会(Presbyterian Church of England)が設立されたのは1876年
http://en.wikipedia.org/wiki/Presbyterianism
ですから、1865年にはまだイギリス長老派教会は存在していなかったはずです。
 どうして、こういったことにこだわるかと言うと、英国とは言っても、(かつてのオランダやスペインとは違って、)イギリス(英国本体)はキリスト教布教に関心はなかったことに注意を喚起したいからです。
 ちなみに、元台湾総統の李登輝(1923年~)は、米国留学前の1961年にキリスト教に入信しますが、彼の宗派は長老派です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BB%E8%BC%9D (太田)
 
 「日本が明治維新後、日清両属の琉球の処遇に苦慮し、また、台湾にも食指を動かしていた頃の1871年に、琉球の宮古島の住民66名が台湾南部に漂着し、54名が牡丹社(部落)の先住民に殺害され、残る12名は保護されて辛うじて帰国するという「牡丹社事件」<(注15)>が起こった。・・・翌1872年に日本政府は、福州に領事を駐在させて福建と台湾の事情を窺わせ、陸軍少佐の樺山資紀<(注16)>と清国留学中の水野遵<(注17)>を、ひそかに台湾に派遣し、現地の調査をさせた。これとほぼ同時に、アメリカの前厦門領事であり、台湾の事情に精通しているリゼンドル<(注18)>を、破格の年俸1万2000円で外務省顧問に採用し、台湾出兵の準備を進めた。・・・」(55~56)
 (注15)宮古島島民遭難事件とも言う。「日清修好条規の結ばれた1871年・・・、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。・・・事件に端を発して、早くも1872年・・・に鹿児島県参事大山綱良らの台湾征伐論が台頭し、自ら征伐せんと請うた。・・・日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年・・・、台湾出兵を行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E5%B3%B6%E6%B0%91%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 (注16)1837~1922年。「武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。階級は海軍大将。・・・警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E8%B3%87%E7%B4%80
 (注17)1851~1900年。「政治家、官僚。貴族院議員、衆議院書記官長、台湾総督府民政長官。・・・醤油屋・・・の息子として生まれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E9%81%B5
 (注18)Charles William (Guillaum) Joseph Emile Le Gendre。1830~99年。「フランス生まれの<米国>の軍人、外交官。1872年から1875年まで明治政府の外交顧問、1890年から1899年まで朝鮮王高宗(1897年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。十五代目市村羽左衛門は実子。声楽家の関屋敏子は孫にあたる。」フランスに生まれ、ランス大及びパリ大に学び、米国人と結婚して米国に移住し帰化した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB
→伊藤のこの本に全く典拠が付されていないことについては、新書ということから目をつぶるとしても、「日本<が>・・・1871年に・・・台湾にも食指を動かしていた」ことについてはもう少し具体的記述が必要でしょう。
 「1872年、厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドルは日本に立ち寄り、明治政府に台湾問題の武力解決を提唱した。これは副島種臣外務卿の意見とも一致しており、ルジャンドルは米国領事の職を辞し、1872年12月12日、外交および軍事顧問として明治政府に雇用された」(ウィキペディア上掲)ということからすると、むしろ、ルジャンドルの提唱がきっかけになったという印象を受けます。
 (ウィキペディアのこの記述については、英文の典拠が付されています。)(太田)
(続く)