太田述正コラム#6563(2013.11.9)
<台湾史(その9)>(2014.2.24公開)
 「リゼンドルは・・・「北は樺太より南は台湾にいたる一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言し<たが、>・・・後日、日本の大陸政策は、ほぼこのリゼンドルの建言に沿ったものになっている。
→典拠が喉から手が出るくらい欲しい個所ですが、仮にリゼンドルがこのような建議をしていたとすれば。それは、ロシア抑止とロシアとつるむ可能性のある専制的で腐敗した支那を制御するためには、誰が考えても西太平洋の海洋勢力がとるべき戦略はほぼ同じものにならざるをえない、ということの裏付けでしょう。
 これとほぼ同じ戦略を戦後の米国がとって現在に至っていることは、言うまでもありません。(太田)
 朝鮮の独立をめぐって、日清両国は、1894年8月1日に戦端を開いた。同年末、・・・元枢密顧問官の井上毅<(注21)(コラム#4524、4669、4772、4782、5434)>は、伊藤博文首相に・・・意見書を送り、「世人ハ皆、朝鮮ノ主権ハ之レ必ズ争フベキコトヲ知りタレドモ、台湾ノ占領ハ尤モ争フベキコトヲ知ラズ。…彼ノ朝鮮ハ竟ニ独立ノ力無シ。…而シテ之ノ為保護国ハ義侠ノ美名有レドモ富殖ノ実益無シ。台湾ハ則チ然ラズ。・・・<とした上で、台湾の地政学的重要性を>」・・・述べ、台湾領有の重要性を説き、この機を逸すれば再び機会はないと建言した。・・・
 (注21)1844~95年。「肥後国<の>熊本藩・・・<の武士の家>に生まれ・・・必由堂、時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後には開成学校で学ぶ。翌年に明治政府の司法省に仕官、西欧視察におもむく(1872~73年)。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。・・・法治国家・立憲主義の原則を重んじ<つつも、>・・・安定政権を作れる政府党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤とともに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。枢密顧問官、第2次伊藤内閣の文部大臣を歴任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85
→日本が手放すまでの間に、日本にとって、植民地化した後の台湾は黒字化したのに対し、(植民地であった期間が台湾より短かったこともありますが、)朝鮮半島がついに黒字化しなかったこと、また、この間、朝鮮半島/韓国が、一貫して清→日本→米国の属国であり続けてきたことは、井上の洞察力の正鵠さを示しています。
 なお、朝鮮半島の「保護国」化は「義侠」のため、つまりは人間主義的動機によるものであることが、当然視されていることに注意してください。(太田)
 大本営は翌1895年1月、澎湖列島の占領を決定し、下関における日清講和会議さなかの同年3月26日に、・・・澎湖島を占領させた。・・・同月30日に日清休戦協定が調印されたが、台湾と澎湖列島は休戦地域から除かれた・・・。・・・
 日清開戦直後の1894年10月、すでに日本政府の台湾領有の野心を察知していたイギリス政府は、ロンドンの『タイムス』にこれを報道させて各国の関心を喚起し、また、フランスは日本の台湾占領に強く反対し、武力行使も辞さないことを表明した。これらの動きに鼓舞された、清国の両江総督である張之洞<(注22)>(1837~1909)は翌年3月、ロンドン駐在の清国公使を通じて、台湾を抵当に数千万両の借款をイギリスに打診したが断られた。同じ頃、フランスの艦隊は澎湖島に到着し、日本軍が間もなく澎湖島に侵攻することを知らせ、また、フランス政府は清国政府に、台湾をいったんフランスに譲渡し、戦後に返還することを提案した。しかし、この提案は台湾の守備にあたり、かつて清仏戦争で勇名をはせた劉永福<(注23)>(1837~1917)の強硬な反対で、実現しなかった。そしてこの直後に、日本軍が澎湖島を占領したのである。」(65~67)
 (注22)1837~1909年。「曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで、<清末の>「四大名臣」とも称される。・・・。西太后が強引に光緒帝を擁立した際、それを支持する態度をとったことから引き立てられ、1880年代に山西巡撫、両広総督、湖広総督と歴任し、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めた。清仏戦争、日清戦争においては強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた。1890年に鉱床が見つかった大冶鉄鉱山の開発をドイツとともに進め、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。19世紀末におこった変法運動に対しては、・・・「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%B9%8B%E6%B4%9E
 (注23)「青年期は・・・天地会に参加し、後に広西省と雲南省の辺境地方の武装組織黒旗軍を組織した。その後清朝の正規軍の攻勢により黒旗軍はベトナムへと駆逐されるが、そこで劉永福は黒旗軍を率いてベトナムに進入したフランス軍を<一旦>駆逐し・・・ている。ベトナムにおける清仏の戦闘が終結すると、劉永福は帰国したものの、黒旗軍を解散させられた。しかし日清戦争が開始されると朝廷より再び黒旗軍を結成し台湾防衛を命じられた。1895年、下関条約が締結されると・・・台湾民主国の独立宣言がなされた<が、>・・・劉永福は民主国政府より大将軍に任じられ、台北陥落後の抵抗を担うこととなった。<しかし、>台湾民主国総統<ら>が廈門に逃亡するに至り、・・・民衆より総統への就任が求められるが、劉永福はこれを拒絶、幇弁という地位により民主国政府を指導することとなった。台湾民主国の実質的なリーダーとなった後は、台南に於いて議会を設置すると共に、紙幣の発行などを行っている。しかし・・・、日本軍が台南に迫ると安平へ、その後ドイツ船籍の船で中国へ逃亡している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%B0%B8%E7%A6%8F
→「イギリス政府<が>・・・『タイムス』に・・・報道させた」というのは、にわかに信じ難いものがあります。
 日清戦争後、日本が領有することとなった遼東半島をフランスはロシア、ドイツと共同で清に還付させたところ、これに英国は加わっていませんし、そもそも、英国は、ロシアとユーラシア大陸全般にわたって覇権争い・・グレートゲーム・・を展開しており、軍事的には米国以上に、ただし、経済的に自国の清における権益を害さない範囲で、日本の大陸「進出」を歓迎する立場であったはずだからです。
 英国が1902年には日英同盟を結ぶことを思い出してください。(太田)
 「フランス政府は講和条約締結の直後、日本の台湾領有を阻止すべく、一度は台湾への派兵を準備したが、領有するマダガスカル島の動乱のために中止した。・・・
 <その台湾では、>台湾独立へ向けてにわかに準備が進められ、1895年5月23日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。・・・かくしてアジア最初の共和国が、ここに誕生した。ただし、諸外国の承認を得られぬまま日本軍の進撃により、ほどなくして消えたのである。・・・
 日本政府は・・・台湾の受渡しと占領を急いだ。・・・
 日本軍は思いのほか、たやすく北部を制圧した。・・・<ところが、>南進作戦は、強い抵抗に遭い苦戦を強いられ<た。>・・・当時の陸軍の3分の1以上が動員され、海軍は連合艦隊の大半が動員された。・・・
 当時の台湾の人口は、先住民は45万、移住民は255万で合計約300万と推定されている。移住民の多くは南部と中部に居住し、新開の台北を中心とした北部は、・・・政治の中心とはいえまだ時浅く、住民はそれほど定着していなかった。・・・
 台湾住民の犠牲は、戦死と殺戮された者を合わせて1万4000人と推定され・・・それに対して日本軍の戦死者278名・・・と発表されている。」(69、73~75)
→日本の韓国併合は、1905年の保護国化も、1910年の併合も、このような抵抗を受けるどころか、完全に平穏理に行われた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
ことからすれば、現在の台湾の親日ぶりに対するところの、韓国の反日ぶりは異常である、と皮肉りたくなりますね。(太田)
(続く)