太田述正コラム#6585(2013.11.20)
<アングロサクソン・欧州文明対置論(その2)>(2014.3.7公開)
 (2)韜晦
 「しかし、当然ながら、このようなことを言うのは外交的でないので、<英米の>著述家達や政治家達は、はるかに心地がよいところの、「英語圏(Anglosphere)」ではなく「欧米(Western)」という言葉を使う。・・・
 サミュエル・ハンティントン(Samuel Huntington)<は、>・・・欧米の諸起源をキリスト教会のラテン支部(branch)とギリシャ支部への分化(division)に求めた。
 この分化は、1054年に東西教会分裂(schism)<(注1)>となった。
 (注1)「1054年に、・・・正教会のコンスタンディヌーポリ・・・総主教ミハイル1世が教皇レオ9世に対して宛てた手紙の中で、差出人(ミハイル1世)の称号は「全地総主教(・・・Ecumenical Patriarch)」と記載され、ミハイル1世が教皇であるレオ9世に対し「父」ではなく「兄弟」と呼びかけていた事が東西両教会間の争点となった。「全地総主教」の称号は、ローマ教皇の絶対的な権威と権限を侵しかねないものとして捉えられ、また教皇を「父」ではなく「兄弟」とコンスタンディヌーポリ総主教が呼ぶ事を認める事は、これもまたローマの権威を損ねるものとして捉えられたからであった。こうした状況下で、ローマ側の使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていた・・・枢機卿フンベルト・・・は・・・フィリオクェ問題、すなわち聖神が父からのみ発するとする文言を用いる東方教会と、聖霊は父と子から発するとする文言を用いる西方教会との間の論争において、「東方が勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し(実際は西方がフィリオケを後代に付加えた事は、現代の西方教会は認めている)、ミサにおける東方の執行形式を非難し、・・・正教会の聖職・・・の妻帯を批判し、さらにローマ教皇の絶対的な権威と権限を主張するなど、熱烈なローマ教皇至上主義者であった。ミハイル1世は・・・数ヶ月に亘って会見の機会を与えずにフンベルトを待たせた。ここに至って、レオ9世が既に3ヶ月前に永眠しており破門を行う事は不可能であったにも関わらず、フンベルトはミハイル1世とその同調者に対する破門状を、1054年6月16日にコンスタンディヌーポリ総主教の座所たるアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけた。・・・これに対してミハイル1世は、フンベルトとその一行に対する破門を宣言した。・・・
 <もっとも、>東西教会の分裂がこれで確定したと考えるのは難しく、東西両教会のこの時点での破門は有効だったのかすら疑わしい・・・東西両教会の分裂が決定的とされるのは1204年の第4回十字軍がコンスタンディヌーポリを攻略・占領した事件においてである。なおこの相互破門は1965年に東西両教会双方から解消されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB1%E4%B8%96_%28%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%B7%8F%E4%B8%BB%E6%95%99%29
 欧米は、この区分によれば、その文化において正教的ではないところの、もっぱらカトリック的ないしプロテスタント的な欧州諸国、及び、米加豪・ニュージーランド、から構成されることになる。」(A)
→(日本文明を独立の文明としたほどの)ハンティントンが、韜晦していたのか、それとも本当に西側概念を信じていたのかは定かではありません。(太田)
 (3)南北アメリカ比較
 「ヴェラスコ(Velasco)<(注2)>将軍のペルーにおいて、彼による1968年の一揆(putscy)は、この国を、それからようやくのことでつい最近になって同国が回復したところの、賤しく汚らしい状態へと貶めた。
 (注2)1910~77年。「ペルーの軍人、政治家、大統領。」ペルー陸士卒。「1968年10月3日に無血クーデタで・・・権力を握る<。>・・・1969年6月24日には・・・南米最大規模の農地改革<を>実施<し>た。・・・ヴェ>ラスコ政権の目指した基本的な立場は「資本主義でも共産主義でもない人間的な社会主義」であり、ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義がモデルにされた。・・・<同政権は、また、>先住民の復権を図った。・・・経済面では外国経済の従属から脱して国民経済を確立しようと輸入代替工業化を推進した。・・・銅会社や、漁粉会社などは国有化され、銀行への統制も進み・・・<一部>を国有化した。外交面では、・・・<米>国一辺倒の外交から転じ、1971年には<中共>と、1972年にはソ連、キューバと国交を樹立した。東<欧>諸国や西<独>をはじめとする西<欧>諸国や日本、さらにはチリをはじめとするラテンアメリカなどと繋がりを深めた。また、非同盟運動を推進し、第三世界諸国とも交流が深まった。
 <ヴェ>ラスコの築いた軍事革命政権は、アンデス諸国・・・<や>パナマ・・・の革新的軍事政権・・・に模倣され、一つのモデル体制となった。・・・
 <ヴェラスコは、>1975年8月29日に軍内・・・中道派・・・による無血クーデタで失脚した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89
 
 主要諸産業を国有化するとともに、ヴェラスコは、諸農地を細分化して自分の軍人仲間達に与えたところの、農地改革計画を布告した。
 諸政府が自分達の市民達から略奪する(plunder)と必ず起きることだが、扇動者達の諸集団が法を無視し始めた。
 それは、スペインの第二共和国<(注3)>やアリェンデ(Allende)のチリにもあてはまる。
 (注3)「1931年に国王アルフォンソ13世が退位した後、1939年に・・・フランコが独裁体制を固めるまで続いたスペインの共和政体。公式国名はスペイン共和国」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
 ちなみに、「スペイン第一共和政・・・は、1873年に国王アマデオ1世が退位した後、翌1874年に王政復古するまで続いたスペイン史上初の短命な共和政体。公式国名はスペイン共和国」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
 <どこでも、>警察は、風見鶏となり、財産を守ることを躊躇した。・・・
 ペルーは、結局のところ、紙の上でだけ欧米の国だったのだ。
 その文明は<確かに>キリスト教<文明>だった。
 その建国者達は、自分達を啓蒙主義の申し子達であると思っていたし、理性、科学、民主主義、そして人権群を強く信奉していた。
 しかし、ペルー・・というかラテンアメリカ全般・・は北アメリカが当然視しているところの、法に立脚した市民社会を達成したことがない。
 ほぼ同じ頃に<イギリスと欧州の人々によって>植民された新世界の二つの大きな大陸群で、殆んどコントロールされた実験が行われた、と言ってよかろう。
 北は英語をしゃべる人々によって植民されたわけだが、彼らは、財産諸権、個人的自由、そして代議政府の信条を<故郷から>一緒に持ってきた。
 南はイベリア人達によって植民されたわけだが、彼らは、故郷の諸州における巨大な農地と準封建的社会を<新大陸において>複写した。・・・
 要するにこういうことだ。
 私がそこ<(南北アメリカ大陸)>に物理的にかつ知的に旅をすればするほど、英語をしゃべる世界とスペイン語をしゃべる世界が一つの共通の欧米文明の二つの現れ(manifestation)であるとの観念を維持することは困難になってくる。」(A)
→南北アメリカの驚くべき違いから、アングロサクソンと欧州が異なる文明ではないかと考え始めた点でハンナンと私はよく似ています・・私の場合は、1975年に、車で米国から国境を越えてメキシコに入った瞬間にそう考え始めた・・が、ヴェラスコの社会主義政策を引き合いに出すのはいかがかと思います。
 このような社会主義政策は、英国の労働党政権が戦後追求した政策と基本的に同じであり、インドでもネール父子が独立後長きにわたって追求してきた政策でもあるからですし、農地改革については、英労働党政権は実施しなかったけれど、戦後、(戦前行われていた日本政府内での検討を踏まえて、)米占領軍が日本で実施した政策だからです。
 付言すれば、「英語圏」の米国でも、奴隷所有者が南北戦争を契機として奴隷解放・・財産権の侵害・・を強いられましたし、日本でも、版籍奉還/廃藩置県/秩禄処分によって、武士階級が集団として財産権等の返上を強いられたところです。
 いや、肝心のイギリスにおいても、国教会の樹立の過程で、修道院が廃止され、キリスト教聖職者が集団として財産権等を没収されています。
 ハンナンが財産権の不可侵性を「英語圏」の属性とするのは、「英語圏」自身の歴史に照らしても、ナンセンスです。(太田)
 「アレクシス・ド・トックヴィル<は、>・・・『アメリカにおける民主主義(Democracy in America)』の1頁目において、この本の主要な主題の一つを予期している。すなわち、それは、英語をしゃべる人々が、<欧州から>独特な政治文化を一緒に新世界に持込み、フランスやスペインのアメリカで起こったこととはかけ離れた形でそれを発展させた、という観念だ。
 彼は、「米国人達は、糸の切れた凧になった(left to himself)イギリス人なのだ」と記した。」(A)
(続く)