太田述正コラム#0222(2004.1.4)
<現代日本の越し方行く末(その5)>

   (イ)戦争の引き金
 開戦の詔勅は、「米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ  朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス  斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」(前掲サイト)としているところですが、マッカーサーも「米国は日本を直接攻撃はしませんでした(We bypassed them)。閉じ込めたのです(We closed in)。日本が抱える8000万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。・・このように膨大な労働力が存在するということは、彼らには、働く対象たる原材料も<膨大に>必要であることを意味します。<しかし>日本には・・国産の資源がほとんど何もありません。綿も羊毛も石油製品もスズもゴムも無く、その他にも多くの資源がありません。それらすべては、アジア海域(Asiatic basin)に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1000万人から1200万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。彼らが戦争を始めた目的は従って、主として安全保障上の必要に迫られて(largely dictated by security)のことだったのです。」(前掲マッカーサー証言。前掲サイトより孫引き)とこれに完全に同意しています。                
 戦争の引き金を引いたのは、日本軍の仏印進駐をとらえて、英国等とともに日本に対する冷戦・・経済封鎖・・に踏み切った米国であることは議論の余地が無い、と言い切っていいでしょう。
 熱戦の火蓋が切られた日本の真珠湾奇襲をとらえて開戦責任を日本に帰せしめる、いまだに米国等の一部に見られる議論は、いいかげんお払い箱にすべきでしょう。

 いずれにせよ、先の大戦終了後、日本に対する経済封鎖など全く考えられない世界が、遅ればせながら覇権国たる自覚のできた米国によって現出したことは、この点でも日本が先の大戦の勝利者となったことを意味します。

ウ 結論的考察

 以上をまとめると以下の通りです。

 戦争の背景:欧米による有色民族の支配と抑圧・・・日本の勝利
 戦争の原因
戦争に至った理由:東アジアにおける覇権の維持の是非をめぐる争い・・・日本(は東アジアにおける覇権を失ったことにより)、米国(は否定していた東アジアにおける覇権を引き受ける羽目に陥ったことにより)、ともに敗北
開戦の引き金  :日本に対する経済封鎖・・・日本の勝利

すなわち、結果としての勝敗はともかくとして、先の大戦の背景にせよ、戦争に至った理由にせよ、開戦の引き金にせよ、理はことごとく日本側にあったのですから、当時の日本の最高の知識人らがこぞって開戦に快哉を叫んだ気持ちはよく分かります。
三つだけその事例をご紹介しましょう。
まず、支那事変を拡大していった日本政府に批判的であった支那研究家の竹内好は
 「不敏を恥ず。われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。・・わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。・・この世界史の変革の壮挙・・」(竹内好「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」(1942年)より。松本前掲176??177頁より孫引き)、次に共産主義者であった青野季吉は「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。何といふ巨きな構想、構図であらう。アメリカやイギリスが急に小さく見えてきた。われわれのやうに絶対に信頼のできる皇軍を持った国民は幸せだ。いまさらながら、日本は偉い国だ。」(青野季吉1942年の『文学界』掲載の論考より。松本前掲261頁より孫引き)、また文芸評論家の河上徹太郎は「吾々は、・・いろいろな角度から現代といふ時勢に向って銘々が生きて来・・ながら、殊に12月8日以来、吾々の感情といふものは、茲でピタッと一つの型の決りみたいなものを見せて居る。・・つまりそれを僕は「近代の超克」といふ・・」(河上徹太郎の1942年の『中央公論』掲載の座談会での発言。子安前掲180頁)、と述べているところです。

 だからといって、私は支那事変を拡大し、日独伊三国同盟を締結し、先の大戦を開戦した当時の日本の指導者達の愚かしさを等閑視するわけにはいきません。この間に、余りにも大きな人的物的被害が日本を含む東アジアで発生したからです。
 一言で言えば、彼らは余りにアングロサクソンや西欧を知らなさ過ぎた、ということです。
 アングロサクソンが分かっておれば、(宋美齢一人でどれだけのことができたか(コラム#177??179)を思い起こすまでもなく、)米国の世論や指導者に日本側に理があることを理解させることが全く不可能であったとは思いませんし、西欧が分かっておれば、日本は間違ってもドイツやイタリアと提携するなどという愚行に走るようなことはなかったことでしょう。

 しかし、いつまでも過去にとらわれているわけにはいきません。
 「現代日本の行く末」を考えるにあたって、なお残されている最大の問題は、先ほど引用した河上徹太郎の述懐に出てくる「近代の超克」という言葉をどう考えるかです。
 これは、「日本人は・・自分たちが中国の文化を受け入れたものの、これを変容させることによって独自の文化、より高度の文化をつくりあげたと考えており、さらに西欧文明と取り組んだ際も似たような事業に成功したと確信している。」というコリン・ロスの言(コラム#218)をどう考えるかということでもあります。
 いささか雑駁ではありますが、現在の私の考えを申し述べれば、維新後7??80年にして早くも当時の日本は、自由と民主主義というアングロサクソン的理念、すなわち近代的理念を、アングロサクソンの個人主義ならぬ(和辻哲郎の)「人間(じんかん)」主義、かつアングロサクソンより更に徹底した世俗主義、に立脚して再構築することにより、「独自」の「より高度」にしてより普遍性のある文化をつくりあげることに成功していたのであり、河上を始めとする「近代の超克」論者やロスの指摘は正しかった、というものです。(この「文化」の経済システムについては、拙著「防衛庁再生宣言」234??236頁、及び拙稿「「日本型」経済体制論??政府介入と自由競争の新しいバランス??」(筑摩書房「産業社会と日本人」(1980年6月)に収録。コラム#40、42、43に簡単な紹介がある)参照。また、英国人たるもう一人のジョン・マクマレー(1891-1976年)の影響による英国の「人間」主義化については、コラム#113、114参照。)

(続く)