太田述正コラム#6679(2014.1.6)
<またもや人間主義について(その1)>(2014.4.23公開)
1 始めに
 タイトルをご覧になって、またか、と思われた方もおられるかもしれませんが、人間主義は、私のコラムを貫く最大のテーマと言ってもよいので、ご容赦ください。
 このシリーズ執筆を思い立ったのは、マシュー・リーバーマン(Matthew Lieberman)の『社会的–どうして我々の脳は結び付くように配線されているのか(Social: Why Our Brains Are Wired to Connect)』と、ジョシュア・グリーン(Joshua Green)の『道徳的諸種族–感情、理性と我々・彼らの間の溝(Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them)』、ほか1冊、の計3冊を対象にした書評(A)を読んだ時です。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/39a015c6-6bc7-11e3-85b1-00144feabdc0.html#axzz2pO3X1JY5
(1月4日アクセス)
B:http://www.brainpickings.org/index.php/2013/11/08/social-why-our-brains-are-wired-to-connect-lieberman/
(リーバーマンの本の書評)
C:http://www.bostonglobe.com/arts/books/2013/11/02/book-review-moral-tribes-emotion-reason-and-gap-between-and-them-joshua-greene/qwYcMuCw3wDqC60Af5eAAM/story.html
(グリーンの本の書評。以下同じ)
D:http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2013/11/why-we-fightand-can-we-stop/309525/
(グリーンの本ほか1冊の書評だが、ほぼグリーンの本だけの書評と言ってよい。)
 なお、リーバーマンは、ハーヴァード大卒、UCLAの心理学、精神病学、及び生物行動科学の教授兼(社会的認知神経科学)実験室室長(Professor and SCN (Social Cognitive Neuroscience) Lab Director at UCLA Department of Psychology, Psychiatry and Biobehavioral Sciences)です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Lieberman
 また、グリーンは、ハーヴァード大卒(哲学)、プリンストン大(哲学)博士で、ハーヴァード大心理学准教授兼同大道徳認知実験室室長(director of its Moral Cognition Lab)です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joshua_Greene_%28psychologist%29
2 マシュー・リーバーマンの主張
 「社会的思考は極めて根元的であって、緊急の業務(pressing task)が何であれ、それから解放されたら、我々の意識を充たす。
 この「初期条件たる人間関係網(default mode network)」活動は、生まれてから二日経った赤ん坊達の間で検知(detect)されてきたところの、「社会的世界の中でのいかなる意識的関心に優先する(precede)」ものだ。
 大部分の神経科学者達は、人は、非社会的思考に用いられるシステムとは極めて異なったところの、社会的推論(social reasoning)のための専用のシステム(dedicated system)を持っている、と信じている。
 ついでに言えば、この片方のシステムがオンになっている時にはもう片方のシステムはオフになっているのだ。
→このような主張には、被験者が米国人たる実験が裏付けとしてあるのでしょうが、私の大胆な仮説は、これは、アダム・スミスが描写したイギリス社会の人間像・・個人主義人である時と人間主義人である時とを峻別して生きている人間像・・を思い起こさせるところ、それは、拡大英国人やできそこないのアングロサクソンたる米国人(但し、個人主義人と人間主義人ならぬ利他主義人とを峻別)にだけみられる例外的人間像である、というものです。
 仮説の上に仮説を重ねますが、日本人は人間主義的人間像でほぼ一元化されているのに対し、以上以外の人々は、タテマエは集団主義的人間像でホンネは利己主義的人間像であり、事実上、ほぼ一元化されている、といったところのような気がします。
 なお、このような違いは、成長過程における人間主義の希釈度の違いによる、ということになります。(太田)
 リーバーマンは、社会的システムがどのように三つの核心的業務群を達成するかを説明する。
 第一に、それは他人と結ばれなければならない。
 例えば、それは、拒絶と帰属に関する社会的な痛みや愉楽を感じることを伴う。
 第二に、それは、他人の心中を読む諸スキルを培わなければならない。
 他人のふるまいや行動を適切に予測するためにその人が何を考えているかを知るためだ。
 最後に、それは、これらの能力を他人と調和するために用いなければならない。
 社会的世界の中で安全に栄えるためだ。・・・
→何と言うことはない、日本人の日常的な当たり前の行動様式を裃を付けて描写している、という感じですね。(太田)
 リーバーマンは、脳は、「それが物理的な痛みを経験する場合と殆んど同じように、我々の社会的結び付きに対する脅威を経験」するのであって、社会的痛みと物理的痛みに係る脳スキャンの若干は互いに弁別できない、と述べる。
 最も驚くべきは、パラセタモール(paracetamol)<(注1)>を服用すると、そのどちらの痛みも和らぐのだ。
 (注1)アセトアミノフェン(Acetaminophen)の別名。「軽い発熱や、寒け、頭痛などの症状を抑える解熱剤、鎮痛剤として用いられる薬物の主要な成分の一つとなっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3
→いかにももっともらしい話ですが、それなら、どうして鎮痛剤の効能に心の痛みにも効くと謳っている事例がまだないのでしょうか。
 また、一般的な心の痛みと失恋の痛みは重なっている部分もあるのでしょうから、将来は、失恋につける薬はない、という表現も死語になるのかもしれません。(太田)
 感情的な痛みの本能的な(visceral)性格は、どうして、ある調査で、死ぬより人前で話す方が怖い人の方が多いという結果が出たのか、どうして、心が折れる(broken heart)、腸をぶっ叩かれる(punch in the gut)、顔をひっぱたかれる(slap in the face)、といった隠喩を世界中の言語が用いるのか、をうまく説明できるかもしれない。
 これは、それ自体が魅惑的であるだけではない。
 リーバーマンは、社会的かつ政治的な目的を持っている。
 現在の欧米世界は、我々の根元的な社会的性格を十分考慮に入れていない。
 「我々は丸い(非社会的)穴に無理矢理入れられている四角い(社会的)栓なのだ」と彼は言う。
 このことで部分的に責めを負うべきは、自律的(autonomous)合理的主体(rational agent)という啓蒙主義的な観念に存する。
 この個人主義は欧米に極めて深くしみ込んでいるために、東方の諸文化や、リーバーマンが呼ぶところの、「調和的な(harmonising)」ものは、しばしば、それが必然的に伴う全ての否定的諸含意を含め、「大勢順応的(conforming)」であると考えられてしまう。・・・
 教育において、我々は「授業中に社会的な脳を悪者扱いするのを止める」方法を見出さなければならない、と彼は言う。・・・
→リーバーマンの主張のこのくだりには、完全に同意です。
 生来の人間主義を希釈させないで育み続けるところの、日本人の子育てや日本の初等中等教育を紹介しているように読めてしまうのですが、リーバーマンには、恐らくそんなことは念頭にはないのでしょう。(太田)
 <もっとも、>マンションの街区に社会オルグとより多くのコミュニティー空間が必要であるとの彼の観念については、学生寮の大人版に住むと言う展望に身の毛がよだつのは私だけではないという確信を持っている。」(A)
→日本の町会を紹介しているかのようなこのくだりに対する書評子のこのような拒絶反応を見るにつけ、リーバーマンの主張・・人間主義礼賛論・・が米国で市民権を得る時は恐らく永久にやってこないだろう、と思ってしまいますね。(太田)
(続く)