太田述正コラム#6681(2014.1.7)
<またもや人間主義について(その2)>(2014.4.24公開)
 「リーバーマンは、過去20年間にわたって、fMRI<(注2)>のような道具を用いて人間の脳がどのように社会的文脈に対応するかを研究してきたところ、何度も何度も、我々の脳は、哲学者のジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)が主張したように、痛みと愉楽に反応するだけの単純なメカニズムではなく、繋がるように配線されていることを発見した。
 (注2)functional magnetic resonance imaging。「MRI(核磁気共鳴も参照)を利用して、ヒトおよび動物の脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化する方法の一つ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/FMRI
 この探求の核心にあったのは一つの素朴な疑問だった。
 どうして、我々は愛する人を失うとかくもひどい苦悩を味わうのだろうか。
 彼は、<これは>我々の神経構造における設計欠陥<のせいである>どころか、我々の圧倒的な嘆きの能力こそ、我々の進化の基本の枢要な様相なのである、と主張する。・・・
 我々の脳は、肉体的(physical)な痛みを感知(experience)するのとほぼ同じように、我々の社会的諸連接に対する脅威を感知すべく進化したのだ、と。・・・
 <しかし、そうだとすれば、>我々の脳が社会的な痛みと肉体的な痛みとを同様に扱うという事実を踏まえ、我々は社会として、社会的な痛みを我々が行っているのと違った形で扱うべきなのだろうか。・・・
 私とその他の人々がfMRIを使ってやった研究が示したのは、我々が社会的な痛みをどう感知するかは、我々自身についての<これまでの常識的な>認識(perception)とは相容れない、ということだ。・・・
 我々の個人的諸信条の神経的基盤(basis)は、他の人々の諸信条が我々自身の諸信条に影響をあたえることを許すことに主として関わる脳の諸部位の一つと大幅に重なり合っている<ことが判明したのだ>。
 <つまり、>我々自身は、我々がそうであるべきだと信じているような、侵入できない私的な要塞というよりは、社会的影響に係る多車線の高速幹線道路(superhighway)だったのだ。・・・
 インターネット上に、フェイスブックやツイッターといった、それぞれ独特の強みを有する複数のソーシャル・ネットワークがあるように、我々の脳の中にも複数のソーシャル・ネットワーク、すなわち、脳の部位の一連のもの、があって、協動しながら我々の社会的福祉(well-being)を増進(promote)していたのだった。
→ここまでは、その通りだと思いますね。
 かつて、私は、個人というのは、人間関係の束の結節点だといった指摘をしたことがあったのではないかと思いますが、ここで紹介されているリーバーマンの研究成果は、まさにこのような私の個人観とイメージ的にぴったりです。(太田)
 これらのネットワークは、それぞれが独特の強みを有するところ、脊椎動物から哺乳類へ、そして、霊長目から我々人類へ、と移行してきたところの進化史において、それぞれが異なった時期に出現してきたのだ。
 更に言えば、これらの進化的段階と同じものが、同じ順序で、子供時代に要約して繰り返されるのだ。・・・
 リーバーマンは、我々を社会的世界に密接に対応できるようにしてきたところの、三つの主要な諸適応を以下のように探索する。
 連接(Connection) :新皮質(neocortex)を持った霊長目が現われるはるか前に、哺乳類は、その他の脊椎動物から枝分かれし、社会的な痛みと愉楽を感じる能力を進化させ、我々の福祉を社会的連接度と永久にリンクさせた。
 読心(Mindreading):霊長目は、自分達の回りの者達の行動や考えを理解するという比類なき能力を発達させ、<自分達の回りの者達と>連接し続け、戦略的に関わる(interact)ための能力を高めてきた。
 <人類においては、>よちよち歩きの頃、人類以外の種の成人達に見られるものを凌駕するところの、社会的考えの諸形態が発達する。
 この能力が、人類をして、ほぼあらゆる観念を実行に移すこと、我々の回りの人々のニーズと欲求を予期すること、諸集団を創造すること、を可能ならしめ、我々の諸集団を円滑に動かし続けさせているのだ。
 調和(Harmonizing):我々自身という感覚は、最も後になってから進化的贈り物として我々<人類>が受け取ったものだ。
 自身というのは、我々を他の人々から区別するメカニズムであるように見えるし、恐らくは我々の利己性を強調する(accentuate)ものなのだろうが、自身は、実際には、社会的凝集性に向けての強い力として作用(operate)するのだ。
 10代未満及び10代の間、若者は、集団の諸信条や諸価値が我々自身のそれらに影響を与えることを許すところの(脳)神経的諸適応を参考にし続ける(refer to)。」(B)
→このくだりは全面的に不同意です。
 概念の整理が十分なされていないように思われますし、実証的根拠があるのかどうかも、この書評を読んだ限りでは定かではありません。
 仮に実証的根拠めいたものがあるとしても、それは米国的(、ないしはアングロサクソン的)な歪み、または、バイアスがかかった根拠である可能性が大だと思うのです。
 つまり、リーバーマンが、人間主義者であった赤ん坊が成長するにつれて利己的になり、また、身内集団と他者集団を峻別するようになる、という米国社会の病理的な姿を生理とみなし、個体進化が系統進化を繰り返すという一般的通念にこれを無理矢理あてはめたのではないか、と私は疑っているのです。
 リーバーマンの言わんとすることを、私の言葉に置き換えれば、人間は、人間(じんかん)→集団→個人、という順序で発達して行く、これは、人類の発達史でもある、と要約できるのではないかと思われるところ、私見では、人間は、「生まれた」・・より正確には「意識を持った」・・瞬間から人間(じんかん)なのであり、人間(じんかん)とは、自分個人と他人との区別、及び他人と自分との関係性の自覚、その中には、自分の生存にとって不可欠な両親等の近親、つまりは身内集団と、それ以外の人々、つまりは他者集団、との区別も含まれているのであり、リーバーマンの言う三つのものは、生来的に、最初から、同時に人間(にんげん)に備わっているのです。(太田)
(続く)