太田述正コラム#6689(2014.1.11)
<またもや人間主義について(その6)>(2014.4.28公開)
 イスラエルとパレスティナとの紛争の根元(root)には、この同じ一片の土地に対する権利があると考えるところの二つの人々<(=集団)>の間の紛争がある。
 彼らがこのことについて議論をする時、一般に、彼らは、土地所有権の異なった倫理的諸原則を事実であると仮定する(posit)わけではない。
 彼らは、1948年より前にパレスティナにどれくらいの数のアラブ人が住んでいたか、多くのアラブ人がこの地域を去る結果となった戦闘を始めたのはどちらか、最初に他の側に身の毛のよだつことをしたのはどちらか、等々に関する異なった見解・・歴史の異なったバージョン・・を事実であると仮定するのだ。
 この二つの集団が無神論者たる功利主義者達であった場合には、諸事実に関するこれらの議論が変化すると思う理由は定かではない。
→無神論も宣教的ないし戦闘的なものは一道徳的体系(moral system)と言ってよい場合がありますし、功利主義に至っては、一見価値中立的に見えるけれど紛れもなく一道徳的体系であることからライトのここでの思考実験は思考実験になっていません。(太田)
 実際、グリーン自身の本は、<諸事実に関する議論は>変化しないであろうことを示唆している。
 この本の中心的主張にもかかわらず、この本には、人間の紛争の源泉は異なった道徳的諸体系ではないのであって、本来的に(naturally)歪(いびつ)な(unbalanced)観点(perspective)の類である<ことを裏付ける>ところの、多くの証拠が含まれている。・・・
 要は、問題は、双方の集団が人間によって構成されているところにあった、ということなのだ。
 だからこそ、彼らは、自分達のチームの徳を過大評価するとともに自分達の不平不満を増幅する一方で、自分達の競争相手に関してはその真逆を行う傾向・・という深く根ざす(deep)偏見(bias)・・でもって苦しめられてきたのだ。
→私見では、パレスティナ紛争の事例で言えば、どちらの側も、アブラハム系の、しかし異なった一神教という、敵味方を峻別する宗教を信奉している者ないしそれぞれの強い影響を受けている者から構成されていることが、その原因である可能性は否定できません。
 仮にそうだとすれば、ライトがいくら原因は道徳的体系の違いではないと言っても、結局は道徳的体系の違い、ということになるはずです。(太田)
 この偏見は我々の種に自然淘汰で組み込まれているように見える、というか、それが進化心理学者達の間でのコンセンサスだ。
→ここも、実証的根拠が示されていませんが、仮に実証的根拠があるとしても、何度も申し上げているように、被験者が米国人だとすると、偏った特殊な結論が出たという可能性が排除できません。(太田)
 <この偏見は、>二つの氏族(clan)が幾ばくかの有限の資源を巡って闘う、二人の者が同じ番(つがい)の相手や社会的地位を巡って競争する、といった、人間の進化の過程で演じられてきたところの、全てのゼロサムゲームの遺産のように、部分的には見える。
 皮肉にも、これは、幾ばくかの自分に都合が良い(self-serving)諸偏見は我々の進化的過去に関する良い知らせに根差(root)している、ということを意味する。
 すなわち、人々は、自然淘汰によって協力の諸便益を引き出すよう設計されており、<仲間たる>他の人々との間で諸ノンゼロサムゲームを成功裏に演じるわけだ。・・・
 もし、現実の世界において、自分に都合の良い諸偏見の事例を見つけることが困難であるとすれば、それは、見つけるのが困難であるということにされているからなのだ。
 ここでのミソは、我々は、これらの諸偏見が除外している情報に気付いていないことだ。・・・
 その結果、あなたが直面させられている諸敵対関係について、あなたには<その原因が>訳が分からないように思えるし、あなたは諸敵対関係を異邦人的価値体系<(=道徳的体系)>に帰そうという誘惑にかられるかもしれない。
 実際、この誘惑それ自体が、我々の諸競争相手の立場が薄弱であるように見せかけるために我々に組み込まれている装具(equipment)の一部なのかもしれないのだ。
 いずれにせよ、グリーンやその他の多くの人々が、諸価値<の違い>こそが<諸紛争の>深く根ざす原因となっていると見るのは、極めて(deep)人間らしく見える。
 <しかし、>それは不幸なことでもある。
 なぜなら、何度も何度も、かかる信条が、我々が、紛争の背後にある現実の諸論点と取り組むことを妨げてきたからだ。
 単純な古い心理学を学ぶことと<最新の>道徳心理学を学ぶこととはそれほど違うことではない。
 上述したような自分に都合が良い諸偏見は、<古い心理学に言う>「確証偏見(confirmation bias)」<(注8)>・・自分のテーゼに合致する諸事実は感知するが矛盾する諸事実は見過ごす傾向・・なる大きな見出しの下に収まる。
 (注8)確証バイアス。「例: グループに一人だけ女性がいた場合(他は全員男性)、その女性が様々な行動を示していたにもかかわらず、女性への固定観念に合致する行動が特に認識されやすく「やはり女性は○○である」という結論に導かれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%BA%E8%A8%BC%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9
 確証偏見は、一般に、道徳的偏見ではなく認知偏見(cognitive bias)<(注9)>とされるところ、それは、ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)<(コラム#5212、5214、5216、5218、5220、5222、5431、5567、6250)>の本の中で、我々のその他のおかしな知的奇癖と一緒に議論されている。
 (注9)認知バイアス。「人間の判断と意思決定<は>合理的選択理論とは異なった方法で行われている<との指摘>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9
 しかし、<前出の>トロッコ<問題に登場したところ>の諸直観がそうであったのとまさに同じく、認知諸偏見が道徳的諸帰結を持つことがありうるのだ。
(続く)