太田述正コラム#6813(2014.3.14)
<経済学の罪(その2)/私の現在の事情(続x38)>(2014.6.29公開)
2 本の抜粋
 「1954年に英国の経済学者のサー・デニス・ロバートソン(Dennis Robertson)<(注1)>は、米コロンビア大学で、その創立2百年祭を記念する講義を行った。
 (注1)1890~1963年。ケンブリッジ大卒。「アーサー・セシル・ピグーのあとをついでケンブリッジ大学教授となる。・・・ケインズとは仲が良かったが、ロバートソンの経済学の考えは大陸的な要素が強く、<ケインズとの間で>盛んに論争が行われた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%B3
 彼は、経済学者(economist)は何を節約する(economize)のかと自問し、経済学の仕事は、「あの希少資源たる愛を節約する」ことである、と自答した。
 何が愛かだが、ロバートソンが、公民的な徳(civic virtue)や利他主義(altruism)を意図していたことは明白だ。
 我々は生来的に利己的(self-interested)であることから、経済学は、それを奇禍として(instead)、「愛」に依存することなくして、貴重な社会的諸義務を遂行するよう個々人を動機付けるであろうところの、諸報償の体系を提供できるし、提供すべきなのだ、と。
 ロバートソンの愛の概念は奇妙な代物だった。
 それは、利他主義が一定量しか存在しないという前提から出発し、仮に我々がそれを浪費すれば、それが真に必要とされる時には全く残っていない、というのだ。
 しかし、無私のふるまいと善意の諸行動は、それらがより多く与えられ、そして、お返しをされればされるほど、蔓延るものなのだ。
 諺に言う通り、いいことが起きると、いいことを呼び込むのだ。
 しかしながら、ロバートソンのような思考方法では、公民的諸関係が破綻した時、人々がただ乗りしたり多すぎる分け前をぶん取る形で利己的に(selfishly)行動する時、経済学が多すぎることが問題なのではなく、それが少なすぎることこそが問題であるとするのだ。
 このロバートソンによる講話の20年前の1932年、もう一人の英国の経済学者が、経済学の将来についての論文を出版した。
 <その中で、>ライオネル・ロビンズ(Lionel Robbins)<(注2)>は、交易や諸税に関する研究を超えることができる、と主張した。
 (注2)1898~1984年。LSE卒。「当時イギリス及び英語圏の経済学界で圧倒的な影響力を誇っていたのはアルフレッド・マーシャルと彼の門下の経済学者たち(いわゆるマーシャル派)であり、彼らの展開する理論は大陸の経済学者たちのそれとは一線を画していた・・・。すなわち、大陸の経済学者たちが数学による定式化と一般均衡理論の発展を促進したのに対し、マーシャルらは数学的手法を重視せず一般均衡ではなく部分均衡を用いて議論を展開していた。こうした状況下でロビンズは・・・この時代のイギリス人経済学者としては珍しくマーシャルの影響を受けなかった・・・。またその背景ゆえに彼はその後マーシャルの流れを汲む経済学者との論争にコミットしていくことになった・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BA
 彼は、人生(life)の意味が経済的な言葉(terms)で表現される形の、人間行動の単一かつ統一的な理論を提供することができる経済学<の構築>を夢見た。
 その80年後に、彼の夢は実現した。
 結婚についての経済理論が流行ったことが、この学問分野の抑えのきかない諸大志を物語っている。
 人間のふるまいに関する経済学の多くと同じく、これはシカゴ大の経済学者のゲーリー・ベッカー(Gary Becker)(コラム#5071、6773)・・経済<の分野>以外における競争関係を説明するのに経済分析を用いることができることを証明したことに対して1992年にノーベル賞を授与された・・のパイオニア的業績に由来している。・・・
 普通の人間の基本的に良い本性についての、アダム・スミス(Adam Smith)<(コラム#4174、4176、4736、4745、4873、5124、5815、6190、6200、6224、6445、6451、6453、6463、6577、6599、6648、6679、6711、6759、6773)のような啓蒙主義的経済学者達の楽観的信条は、深い絶望に取って代わられ、集団的活動(collective action)は賤しい利己性によって不可能になったと次第に多くの人々が考えるようになったのだ。」(G)
(続く)
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     –私の現在の事情(続x38)–
 HNさんが加工してくれた写真がメールで昨夜、すぐ届き、本日夕刻、改めて私の証明書用の写真を印刷しようとしたのですが、今度もまた、ハガキ大の光沢紙一杯に大きく印刷されてしまいそうな不安が頭をよぎりました。
 そこで、遅ればせながらインターネットで調べてみた結果、「証明書写真を作ろう!」
http://www.vector.co.jp/soft/dl/winnt/art/se466539.html
というフリーソフトを発見し、これをダウンロードしてインストールし、試行錯誤を重ねた結果、最終的に、ハガキ大の光沢紙1枚に15個のミニ写真を印刷することに成功し、そのうちの1個をハサミで切り離して、ついに目的を達成しました。
 要するに、大きな用紙に証明書写真1個を印刷する方法はなさそうだということと、キャノンの・・恐らくは他の会社のも・・プリンターソフトは、証明書写真の印刷をあえてできないようにしている、という2つのことが分かった次第です。
 で、私が勘繰るに、いや、私は恐らく間違いないと思うのですが、これは、写真屋業一般、就中、スピード写真業
http://okwave.jp/qa/q7213218.html
・・スピード写真ボックスを含む・・を衰退させないための、闇カルテルが日本に存在する、ということなのではないかと。
 闇カルテルと言うと語弊があれば、麗しい、業種間助け合いとでも形容すべきでしょうか。
 更に勘繰れば、フリーソフト業界は、15個印刷する手段しか与えず、15倍のインクをこのソフト利用者に使わせることによって、プリンター業界に義理立てをしている、ということなのかもしれませんよね。
 いやはや、何でも自分でやってみるもんですねえ。
 そうすりゃ、こんなに面白いことが、次々に分かってくるってわけです。