太田述正コラム#6831(2014.3.23)
<網野史観と第一次弥生モード(その8)>(2014.7.8公開)
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<脚注:儒教/道教と日本>
 「律令制の継承に伴い、・・・<儒教は、>大学寮において、明経道として教授された。しかしながら、日本においては科挙制度が取り入れられなかったためか・・・学問の主体は、実学的な文章道に移り、次第に衰退した。
 空海<(コラム#52、451、1648、3103、3107、6829)>が『三教指帰』により道教とともに批判するなど、仏教の隆盛も律令儒教の衰退の原因のひとつとなった。・・・
 <その後、>南宋の朱熹<(コラム#2903、4856)>によってはじめられた朱子学<が>、・・・禅僧や元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって<日本で>広められ<た>・・・。・・・
 南北朝時代から室町時代にかけては、京都五山や鎌倉五山など主として臨済宗の禅宗寺院において儒学が研究された。また、・・・下野国の足利学校でも儒学の講義がおこなわれた。・・・
 江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。<そして、>中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって・・・支配のための思想として採用された。・・・
 陽明学<の方>は、中江藤樹<(コラム#3666)>が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。いわゆる近江商法<(コラム#5360)>にその影響を見る者もいる。 儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎<(コラム#1626、1632、1648)>によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学、古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行<(コラム#5362、5768)>、伊藤仁斎<(コラム#5397、5413)>、荻生徂徠<(コラム#1644、1648、4170、4529、5362、5397)>によって始められた。
 <こうして、>江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。一方、一般民衆においては、石田梅岩<(コラム#1626、5358、5360、5366、5368)>の石門心学等わずかな例外を除き、・・・儒教思想はほとんど普及しなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99
 「律令制に<おいて、>道教に関する役所陰陽寮が設立された<が、>・・・やがて廃止された。また、唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。・・・
 道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。・・・
 <また、>古神道の一つである・・・山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。・・・
 易も道教に起源を持<つが、>・・・日本でも根付いている。
 日本に伝来し、<ほぼそのままの形で>定着した道教信仰と言えば、庚申信仰<くらい>である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E9.81.93.E6.95.99
→日本における、儒教についても、道教についても、それぞれ、簡にして要を得た説明をしているウィキペディアだと思う。
 ざっくり私見を申し上げれば、儒教は支那のイデオロギーであり、道教は支那の宗教であったところ、日本において、拡大弥生時代に、当然のこととして、どちらも、形の上では支那から導入されたものの、すぐに廃れてしまい、道教については、その後も日本に殆んど影響を与えなかったのに対し、儒教は、第二次縄文モード(江戸時代)においてのみ、人間主義の理論化のために用いられるという形で、(弥生人の末裔であるところの、)武士を中心に一定の役割を果たした、ということだ。
 社会的・個人的不安が高まり、日本人全般が最も宗教やイデオロギーを必要としたところの、第一次弥生時代に、儒教も道教も殆んど何の役割も果たさなかった、という点に、両者が、本来的にはいかに人間主義とは無縁な代物であるかが端的に現われている。(太田)(注10)
 (注10)誤解がないように付言しておく。
 私は、儒教も道教も全く評価していないが、道教の源泉であるところの、老荘思想、就中荘子の思想、及び易経、については高く評価している。
 荘子(BC369年?~286年?)(コラム#52、4483)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90
は、(老荘思想とは関係ないが、)墨子(BC450年頃?~390年頃?)(コラム#1640、3865)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
とともに、人間主義の、それぞれ別個の側面に着目した上で、我々にそれらを生き生きと実感させてくれるからであり、このことは、改めて論じてみたい。
 ここでは、易経(I-Ching)に触れておく。
 日本語ウィキペディアには、「2進法を研究したのもライプニッツ<(1646~1716年)(コラム#814、2753、5134、6182、6451、6459)>の業績である。彼は中国の<著者不詳の>古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師・・・から六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84
とあるが、むしろ、ライプニッツは、易経の陰陽(Yin and Yang)概念の影響で2進法を唱えるに至ったらしい。
 現在のITは2進法の世界であるところ、ライプニッツなくしては、つまりは、易経なくしては、情報化社会はなかった、と言ってもあながち過言ではない。
http://www.theguardian.com/books/2014/mar/21/ancient-book-wisdom-i-ching-computer-binary-code
(3月23日アクセス)
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(続く)