太田述正コラム#6877(2014.4.15)
<フランス革命再考(その1)>(2014.7.31公開)
1 始めに
 
 上梓されたばかりの、ジョナサン・イスラエル(Jonathan Israel)の『革命的諸観念–人権宣言からロベスピエールまでのフランス革命の知的歴史(Revolutionary Ideas: An Intellectual History of the French Revolution from The Rights of Man to Robespierre)』のさわりを書評類をもとにご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/fd313972-aa09-11e3-8497-00144feab7de.html#axzz2w60Yx5RM
(3月16日アクセス。書評)
B:http://www.athenaeum.nl/leesfragment/jonathan-israel-revolutionary-ideas
(4月12日アクセス(以下同じ)。紹介文と本の導入部)
C:http://www.academia.edu/1480601/Review_of_Jonathan_Israels_Revolution_of_the_Mind
 (書評(以下同じ))
D:http://hnn.us/article/128433
E:http://www.timeshighereducation.co.uk/books/revolutionary-ideas-an-intellectual-history-of-the-french-revolution-from-the-rights-of-man-to-robespierre-by-jonathan-israel/2012482.article
F:http://grumpyarthistorian.blogspot.jp/2014/04/revolutionary-ideas-by-jonathan-israel.html
G:http://www.lrb.co.uk/v34/n21/margaret-jacob/spinoza-got-it
H:http://www.newrepublic.com/article/books-and-arts/magazine/100556/spinoza-kant-enlightenment-ideas
I:http://www.wsws.org/en/articles/2010/06/enli-j09.html
 なお、イスラエル(1946年~)は、オランダ史、啓蒙主義時代、欧州ユダヤ人問題についての英国人著述家であり、ケンブリッジ大卒、オックスフォード大博士、ロンドン大教授を経て、現在、プリンストン大近代欧州史教授、という人物です。(コラム#6449)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Israel
 最初にお断りしておきますが、私は、本コラムでこれまできちんと取り上げたことのないフランス革命についての新説に接することを期待してこの本の書評類を読み始めたのですが、この本が、私見では、著者が、旧説のリバイバル的な珍説を提起したものであること、そして、その関連で、既にコラム#6449で言及したところの、啓蒙主義に関する著者のこれまた珍説を巡って、書評類の多くが、小むつかしく、かつ、細か過ぎる啓蒙主義論議を行っていること、に途中で気づき、落胆しつつも、気を取り直してシリーズに仕立てることにしたものです。
2 フランス革命再考
 (1)繁栄していた革命前フランス
 「フランス革命は、生活諸水準の低下による惨めさと欠乏への反応であるという説を受け入れることには明確な論理があることだろう。
 しかし、証拠が示すところによれば、この種の危機は生じなかった。
 18世紀を通じて、町々が、商業と工業(industry)、海運、そして海外貿易とともに拡大するにつれ、フランスにおける一人当たり所得は増えて行った。
 農業も繁栄していた。・・・
 フランスの人口は、1700年から1800年にかけて、2,100万人から2,800万人へと、約3分の1増えた。
 ただし、それに伴う、活動と繁栄の伸びは、町々におけるものが田舎におけるものを上回った。
 その田舎には人口の80%が住んでいた。・・・
 欧州の他の地域同様、18世紀の間に、フランスの主要諸都市は、3分の1から2分の1の間で人口が増え、印象的なほど成長した。
 ボルドー(Bordeaux)は2倍を超える111,000人になった。
 パリは、3分の1膨れ上がり、650,000人前後に達した。・・・
 <つまり、>18世紀末のフランス社会において、その社会を横断するところの、深刻な不安定化させる不満を醸成しがちな類の主要な危機は存在しなかったのだ。」(B)
 
→当時の日本の人口は約3,000万人であるとされています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
が、平地面積が小さく、鎖国をしていて、海運や海外貿易が殆んど存在せず、また大規模な工業もなかったことを考えれば、それは驚異的な人口であったと言えるでしょう。
 また、当時、江戸の人口は120万人くらいで、大阪の人口は40万人くらい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
で、とりわけ、江戸は人口世界一の大都会であった可能性が高い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3
わけですが、いかに、日本が都市化の進展度においても、世界の最先端を走っていたかが分かろうというものです。(太田)
(続く)