太田述正コラム#6923(2014.5.8)
<戦争の意義?(その11)>(2014.8.23公開)
その3:典拠Iを巡って
 「思うに、戦争の進化における中心的パラドックスは、・・・戦争そのものが暴力の減少を引き起こしたことだ。
 進化生物学者達は、暴力を調整諸問題の解決法であるとする大量の文献を生み出してきた・・・。
 殆んどあらゆるものを巡る諸紛議(disputes)が暴力へと導きうる・・・。・・・
 社会的諸動物たる蟻や類人猿などの中の若干の間では、特定の諸種類の諸紛議が、我々が広義の戦争・・諸コミュニティーの全員同士の種族内暴力・・と呼ぶことができるところの、集団的暴力でもって解決されることがある・・・。
 <同じく社会的動物たる>人類も結構同じ諸形態でもってふるまっている。・・・」(11)
→前出のように、類人猿の中にもボノボのように、暴力とは無縁の種もいるわけであり、人間が暴力好きのチンパンジーと同類なのか、平和的なボノボと同類なのか、まだ分かっていないことはモリスも認めているわけです。
 私自身は、人間はボノボと同類である、と考えていることはご承知のことと思います。(太田)
 「過去1万5,000年にわたり、諸社会相互間の諸戦争は諸社会がより大きくなり、より複雑になる(sophisticated)につれて、どんどん血腥くなって行った。
 しかし、諸社会が大きくなり、内部的にこれら諸社会が平和になるにつれて、人口と富が爆発的に増え、人類中、暴力的な死を迎える者の数は急降下して行った。
 石器時代の諸社会では、人口の10~20%が暴力的な死を迎えることは珍しくなかった・・・。
→前述したように、「石器時代」は漠然とし過ぎていますし、「珍しくなかった(not unusual)」という表現は、「人口の10~20%が暴力的な死を迎える」社会以外の社会もあったことをモリス自身が認めていることを意味します。
 私が、新石器時代である日本の縄文時代は、平和的な社会であったと考えていることはご存知の通りです。(太田)
 しかし、20世紀には、近代諸国家が2回の世界大戦を戦い、複数のジェノサイド群をやってのけ、核兵器群を使ったにもかかわらず、世界人口のわずか2%しか暴力的な死を迎えなかった。
 <以上から分かるように、>結局のところ、戦争は、良い場合もあるわけだ・・・。
 どのように戦争が人類をより安全かつ豊かにしたのかについて、歴史の記録が示唆しているのは三つの大まかな諸結論だ。
 第一に、暴力は、より大きく安全で豊かな諸社会を作るためには極めて非効率的な方法ではあるものの、戦争(または戦争への恐れ)は機能してきた殆んど唯一のメカニズムのように見える。・・・
 第二に、証拠は、戦争が、非常に長い時間軸においてのみその魔法が機能するところの、一つの進化的メカニズムであることをも示している。・・・
 第三に、より大きく安全で豊かな諸社会を作る戦争の能力は、地理によって大きく(massively)形成される。・・・
 <ただし、「地理」と「諸社会の発展」の関係は、>地理はどのように諸社会が発展するかを決定するけれど、どのように諸社会が発展するかが何を地理が意味するかを決定する、という行き来関係なのだ、」(13~14)
 
→最後の文章は非論理的です。
 前述したように、地理を転轍機として、戦争を蒸気機関車とする譬えが、モリスの潜在的意図をより的確に捉えている、と私は思います。(太田)
 「より大きく安全で豊かな諸社会への遷移(shift)が始まったのは、地球のまことに特殊な地域においてだった。
 それは、粗々、旧世界では北緯20度と35度の間であり、新世界では南緯15度から北緯20度の間だった。・・・
 <最後の氷河期が終わった時に、潜在的に飼育化が可能な諸植物と諸動物が蔓延った密度が高かった上記地域の中で、最も密度の高かった南西アジアでBC11,000年前後に、次いで密度の高かった南及び東アジアでBC7,500年までに、そして、最後に、最も密度の低かったメソアメリカとアンデスでBC6,500年までに、耕作(cultivation)が始まった。>
 継続的な人間の介入によってのみ再生産ができるところの遺伝子組み換えがなされた諸植物や諸動物の進化<的出現>であるところの、真の飼育化は、典型的には耕作が開始されてから約2000年後に始まった。
 それは、BC7,500年前後に南西アジアで、BC5,500年前後に南及び東アジアで、BC3,300年前後にメソアメリカ(Mesoamerica)で、そしてBC2,800年前後にアンデス・・・で始まった。
 資源密度と飼育化の日付との間の相関度の高さ(consistent fit)が強く示唆するのは、決定的要素(factor)が、人種、文化、或いは偉大な人間などではなく、地理であったことだ・・・。
→耕作の開始ないし飼育化の開始だけへの注目は問題があります。
 私は、耕作の開始や飼育化の開始と定着化をイコール視するのではなく、定着化それ自体にも注目すべきであると考えます。
 そうしないと、世界史の上で極めて重要な日本の縄文時代が、視野からすっぽりと抜け落ちてしまうからです。(太田)
(続く)