太田述正コラム#6941(2014.5.17)
<戦争の意義?(その20)>(2014.9.1公開)
 国家の成長と崩壊(collapse)のサイクルは、まことにもって、昔まで遡ることができるのであって、初期の戦争に<既に>組み込まれていたように見える・・・。
 古代期に、我々は、南西アジアにおける大いなる社会的諸崩壊を、(ウルク(Uruk)<(注28)>拡大が終わった)BC3100年前後<(注29)>、(エジプトの古王国<(注30)>とアッカド(Akkadian Empire)<(注31)>が倒壊した)BC2200年前後、及び、(青銅器時代が終わった)BC1200年前後、そして、南アジアでは(インダス文明<(注32)>が倒壊した)BC1900年前後に見出す。・・・
 (注28)「<現在の>イラク南部のサマーワ[〈(Samawah。バグダードの東南約280km)〉・・陸上自衛隊が2004~2006年駐留・・]にある・・・遺跡が<昔の>ウルクである。旧約聖書にはエレクとして登場する。・・・古代メソポタミアの都市の中でも屈指の重要性を持つ都市であ<り、>・・・イラクという国名の由来ともいわれている。・・・最初の居住は紀元前5千年紀に遡るが、・・・最も古い層は地下水のために調査ができておらず得られる情報は限られる。紀元前4千年紀に入ると、ウルク文化が各地に拡散していくが、この時期をウルクの名をとってウルク期と呼ぶ。ウルク市は各地に商業拠点として植民市や包領地を形成して大規模な都市間ネットワークを形成した。・・・また現在知られている限り、ウルクから発見された文字資料は人類最古のものであ・・・る。・・・「ウルクの城壁を建設したる者」ギルガメシュ<(コラム#2876、3597)>・・・は、・・・実在の人物であることが確実視されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%AF_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AF (〈〉内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%B4%BE%E9%81%A3 ([]内)
 (注29)ギルガメシュはBC2600年頃?に在位したとされており、「ギルガメシュ王は死後間もなく神格化され数多くの神話、叙事詩に登場する」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%83%A5
のであるから、モリスの「BC3100年前後」が何を指しているのか不明である。
 (注30)BC2686頃~BC2181頃。首都はメンフィス(Memphis)<(コラム#5728)>。
http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Kingdom_of_Egypt
 メンフィスは、現在のカイロの南20kmに位置している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Memphis,_Egypt
 「古代エジプトの首都だったメンフィスのネクロポリスだった」サッカラ(Saqqara)には、私はエジプト時代に何度も行ったが、メンフィス遺跡そのものを訪れた記憶がない。「サッカラには多数のピラミッドがある。中でも有名なジェセル王のピラミッドは、その形状から階段ピラミッドとも呼ばれる。他にもマスタバがいくつかある。現在のカイロから南に30km<に位置している。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A9
 「ネクロポリス(necropolis・・・)は、巨大な墓地または埋葬場所である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9
 「マスタバ(・・・Mastaba)とは古代エジプトで建設された長方形の大墓。エジプト原王朝時代から建造が確認されており、古い時代の基本的な貴人の墓の形態であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%90
 (注31)[BC2334年~BC2193年。]「メソポタミア(現在のイラク)南部・・・の北半分の地域、またはそこに興った最古の帝国。中心都市はアガデ・・・。南側にシュメールが隣接し、北西側にアッシリアが隣接してい<た>。・・・[セム人のアッカドが]シュメール[人達]を征服して、チグリス川とユーフラテス川の間を中心に栄えた。・・・伝統的にはサルゴンがアッカドとシュメールの統一帝国の最初の支配者と位置付けられている。・・・<この統一帝国の>領域から政治的・地理的に・・・バビロニアと言う概念・・・<が>形成され<、>・・・アッカド語がバビロニアの言語となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%89
http://en.wikipedia.org/wiki/Akkadian_Empire ([]内)
 (注32)BC7000年頃~BC1900年頃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
→私にとって、第二の故郷のエジプト、とりわけ、滞在当時、目を見張ったところの、古代エジプトがらみの話が出てくると、ついのめり込んでしまうのですが、ご宥恕いただければ幸いです。(太田)
 しかし、紀元前の最後の3000年紀の長期的パターンは、戦争は生産的であって、より大きく、安全で豊かな諸国家の形成を駆動した<ことを見てとれる>。
 全般的に、その趨勢線は指数的成長を遂げ、このパターンの周辺で諸崩壊と諸復活が雑音を奏でた<といったところだ>。・・・
 古代の「暗黒諸時代」は2~5世紀続いたところ、南アジアにおける諸国家は、BC1900年より前の発展水準に1000年間再到達しなかったが、その頃までには、発展の主要中心はインダス流域からガンジス流域へと遷移していた。
 しかし、紀元後の<最初の>1000年紀において、運の良い諸緯度の生産的戦争はその諸限界にぶち当たったように見えた。
 この1000年紀の冒頭、ローマと漢の両帝国は、それぞれ、400万~500万平方キロに分散していたところの、約5,000万人以上もの人々を統治した。
→いつの間にか、マウリヤ「帝国」が消えてしまっていることには苦笑せざるをえません。(太田)
 ところが、ユーラシアの運の良い諸緯度の諸帝国の成功は、地理の意味を根本的な諸形で変えたのであり、それは破滅的な諸結果をもたらしたのだ。
(続く)