太田述正コラム#6943(2014.5.18)
<欧州文明の成立(その1)>(2014.9.2公開)
1 始めに
 本日のディスカッションで言及したように、(プロト欧州文明人、ひいては)欧州人、がどう形成されたかについて、これまでまともに取り上げたことがなかったところ、スライド(パワーポイント資料)作成のための裏付けが必要なので、急遽、本コラム執筆を決意した次第です。
 なにせ、もともと、イギリス史に比べれば、私の欧州史の素養は格段に薄弱であるだけでなく、何しろ応急的に取り組んだことから、粗々至極な内容にしかなりえなかったことをお許し願いたいと思います。
 典拠はもっぱら英語ウィキペディア群・・それを日本語ウィキペディア群で補足した・・ですが、英米人が中心となって書いているはずなのに、かつてイギリス議会史について、やはり英語ウィキペディア群でもって調べた時以上に、相互に整合性がない記述が多く、苦戦させられました。
 例えば、封建制一つとっても、ドイツ通と思しき人物がドイツ中心に描いた内容とフランス通と思しき人物がフランス中心に描いた内容とではかなりの食い違いがあります。
 私も無理すれば、フランス語やドイツ語のウィキペディアにあたることもできたわけですが、そんなことをしていたら、一層甚だしい食い違いに遭遇し、碌な結果にはならなかったことでしょう。
 恐らく、EU共通の欧州史どころか、仏独共通の欧州史すら、いまだに標準的なものはできていないのだろう、と思いました。
2 プロト欧州文明の成立
 (1)ゲルマン人のローマ化
  ア 総論
 「ローマの領域内のゲルマン人達は文化的にローマ化したところ、ローマの直接統治を受けなかったゲルマン人も多くいたけれど、ローマは、ゲルマン社会の発展に、とりわけローマ人達から獲得したキリスト教を採用したように、深い影響を与えた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Germans
 これは、私のかねてからの指摘を裏付けている文章ですね。
 すなわち、現在のドイツ・オーストリア地域にとどまったゲルマン人もまた、ローマ化した、というわけです。
  イ キリスト教とローマ法の継受
 キリスト教については、上でも言及されていましたが、ローマ法を含め、これまで相当論じてきたことから、ここでは、若干の記憶喚起を行うにとどめたいと思います。
 継受されたキリスト教とはカトリシズムのことであり、継受されたローマ法とは、コモンローの判例法主義/法の支配<(注1)>とは違って、制定法主義/法治主義<(注2)>であり、また、継受に伴ってゲルマン法中の裁判員制は消滅し、その一方で、ローマ法中の陪審員制は引き継がれなかったわけです(コラム#5053)。(プロト欧州文明における、裁判員制ないし陪審員制の不存在の理由については、コラム#91で、イギリス人の豊かさと教育水準の高さにひっかけた説明にちょっと触れたことがありますが、機会があれば、もう少し掘り下げてみたいものです。)
 (注1)rule of law。「「法の支配」の原型は、古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの思想[注釈 2]を経て発展したローマ法・ヘレニズム法学に求める見解や、古き良き法に由来する中世のゲルマン法に求める見解もあり、一定しないものの、その後長い紆余曲折を経た上で、明確な形としてあらわれたのが中世のイギリスにおいてであることには、ほぼ異論がない。
→私は、ゲルマン法起源説に与したい。(太田)
 ヘンリー・ブラクトンの「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある」という法諺が引用されるように少なくとも中世のイギリスに「法の優位」(Supremacy of Law) の思想は存在していたとされる。中世のイギリスでは、国王さえ服従すべき高次の法(higher law)があると考えられ、これは「根本法」ないし「基本法」(Fundamental Law)と呼ばれ、この観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである[1]。そのため、法の支配は、立憲主義に基づく原理とされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D
→イギリスには憲法は存在しないのだから、「立憲主義」という言葉は成り立ちえない。
 また、イギリスは、コモンローを主、制定法を従とする法体系を擁してきたわけだが従とはいえ、国王はコモンローこそ左右できないものの、議会の協賛を得て制定法を立法(含む法改正)できたのだから、イギリスの法体系の欧州の法体系における法治主義(後出)との違いは、判例法で形成された手続き的正義が貫徹しており、立法でその正義を毀損することが基本的に認められなかった(典拠失念)点に存する、というのが私の見解だ。(太田)
 (注2)「法治国家の概念の起源については、英国で発展した法の支配と同様に古き良き法に求める者もいるが、一般にはカントを先駆者とし、・・・19世紀のドイツで発展した概念とされる。
→法治主義の概念は、欧州においてそれ以前から、いや、ローマ時代から確立していたはずだ、と私は、常識的に思っている。(典拠省略)(太田)
 社会における階級が激しく対立していた当時のドイツにおいて、法律に従った、法律による、国家の統治を実現することによって、国家内部における客観的な法規の定律及び行政活動の非党派性を保障して階級対立を緩和し、臣民の権利ないし自由を保障する実質的な内容を有していた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%AE%B6
→「法治主義」の、この、欧州における階級の存在を踏まえた説明はなかなか秀逸だと思う。
 なお、同じ日本語ウィキペディア中での、「法の支配」の説明、「法の支配の述べる法とは、議会や法廷あるいは(哲)学者の理性により、現実の社会や慣習の中から「発見される」ものであり、高権力に位置すべき国王(ないし行政府)がその法(法理)を尊重し法の支配に服することをもって社会全体を法理により統治することをさすのに対して、法治国家とは法による支配の、より実定法的側面が強調される。」は、少なくとも、日本語ウィキペディア前掲中の説明よりはマシだと思う。(太田)
 (2)欧州的階級制の成立
  ア 欧州的階級制の成立
 「フランス革命より前においては、フランスは、農民達(peasants)は原住民たるガリア人達(Cauls)と<自分達を>同定し、貴族達(aristocracy)はフランク人達(Franks)と<自分達を>同定する形の、社会諸階級に分けられていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/French_people
 つまり、ドイツでも(上出)フランスでも、ということは、プロト欧州文明時代の欧州・・西欧が念頭にあります・・全域が、個人主義社会のイギリスとは違って、階級社会であった、という私のかねてからの指摘もまた、裏付けられたことになります。
(続く)