太田述正コラム#6973(2014.6.2)
<長い19世紀(その1)>(2014.9.17公開)
1 始めに
 ユルゲン・オステルハンメル(Jurgen Osterhammel)の『世界の変貌–19世紀の全球的歴史(The Transformation of the World: A Global History of the Nineteenth Century)』(ドイツ語原著:2009年)の大歴史書(1,300頁、脚注120、参考文献100)(C)のさわりを、書評類に基づいてご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/5ea6d02e-cfc4-11e3-a2b7-00144feabdc0.html#axzz30czNIQ11
(5月3日アクセス)
B:http://www.scmp.com/lifestyle/books/article/1459261/ambitious-new-book-captures-19th-centurys-lasting-impact-our-world
(5月8日アクセス。以下同じ)
C:http://www.h-net.org/reviews/showrev.php?id=29916
D:http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=8&cad=rja&uact=8&ved=0CHoQFjAH&url=http%3A%2F%2Fscholar.harvard.edu%2Ffiles%2Frimner%2Ffiles%2Frimner_s_-
E:http://www.literatura.com.pl/news/view/170
F:http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=8&cad=rja&uact=8&ved=0CHoQFjAH&url=http%3A%2F%2Fscholar.harvard.edu%2Ffiles%2Frimner%2Ffiles%2Frimner_s_-_die_verwandlung_der_welt.rew_.pdf&ei=Uy5rU9HcLYv48QWou4GQBw&usg=AFQjCNFH1I7FsbaC0AJkQVRgujLr9lQ8Hg&sig2=vfWiMxN-YHNHf6G8vEGb6A&bvm=bv.66330100,d.dGc
 この本は、既に、漢、ポーランド、ロシア、フランス語訳が出ています。
 邦語訳が影も形もないことから、現在、欧州文明とアングロサクソン文明の距離よりも、更に欧州文明と日本文明との距離が遠くなっている、という感を深くします。
 なお、オステルハンメルは、近代支那史の著名な学者であり、コンスタンツ(Konstanz)(注1)大の近代史及び現代史の教授です。(E)
 (注1)「ドイツ・・・のバーデン=ヴュルテンベルク州の都市の一つ。ボーデン湖に面する。・・・1414年のコンスタンツ公会議で知られる。スイスとの国境の街でもあり(スイス側はクロイツリンゲン)、ファンタスティック街道の南の基点でもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%84
 「コンスタンツ公会議・・・は1414年から1418年にかけて・・・コンスタンツで開催されたカトリック教会の公会議。3人の対立教皇を廃し、一人の正統なローマ教皇を立てることで教会大分裂(シスマ)を終結させた。またジョン・ウィクリフと、その影響を受けたヤン・フスを有罪とし・・・1414年、ウィクリフの遺体は掘り起こされて著書とともに焼かれ、1415年7月6日、自説の撤回を拒んだためフスは世俗権力に引き渡されて焚刑に処せられた。・・・コンスタンツ公会議は教皇権が失墜した中で、公会議主義者が主導した唯一の公会議となった。・・・しかし、結果的に教皇権が再び安定したものになると公会議主義の思想は危険なものとみなされるようになっていった。また、公会議の主導による教会の改革は結局行われる事がなく、宗教改革への伏線となっていった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%84%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
2 長い19世紀
 (1)総括
 「オステルハンメルは、19世紀は、何よりも、空前の量の知識が諸文献、諸図書館、諸博物館、諸展示会、そして諸百科事典の中に集積され開陳され、世界が新たな精細さでもって計測され地図に描かれ、世界の住民達が新しい諸方法で数えられ分類され描写され、そして、今までになかった速さで情報が全球的に伝達されうるようになった時期であった、と執拗に主張する。・・・
 19世紀・・この観点からすれば、戦間期まで延長された・・は、巨大な規模の諸四散(diaspora)と諸移民(migration)の時代だった。
 それは<また>、拡大する諸都市と諸辺境(frontier)の消滅の時代だった。
 それらは、異なった、しかし、補完的諸方法で、空前の諸挑戦と諸機会を提供した。
 それは<更にまた>、白人の男達が、今日では理解不可能なように見えるところの、規模と断固たる嗜好(determined relish)でもって、全球的に野生動物を狩猟し殺戮した時代だった。
 それは、民族(nation)のカルトであるところの、ナショナリズムが、それが新たな諸<高>水準へと到達した時期だったけれど、世界の大部分において、組織のデフォルト・モードは実は帝国(empire)だった。
 それは、それ以前にはお目にかかったことのない類の諸革命の時代だった。
 しかし、当初においてこそ、それら<諸革命>は相互に関連していた・・米、仏、ハイチの革命・・けれど、世紀央に起こったもの・・とりわけ、インド大反乱、太平天国の乱、そして米南北戦争・・、及び1890年代に起こったもの・・ロシア、支那、そしてイランの革命、等・・は概ね切り離されており、切り離された形の諸騒動(upheaval)だった。
 そして、それは、多くの諸君主制が自ら自身を再活性化(reinvent)する・・支那におけるそれを見よ・・一方で、民主主義に向けての進歩は、男性達にとっては一部地域においてだけだったし、女性達にとっては、それより、更に限定的(circumscribed)だった。」(A)
 「最初の海底ケーブルが英国と大陸欧州とを連接したのは1851年だった。
 その15年後、大西洋は<ケーブルによって>征服された。
 そして、1885年までには、<世界の>殆んど全ての大都市群は欧州と繋がれた。
 1898年にロンドン・タイムスの予算の15%を諸電信が費消したくらい、費用が嵩んだけれど、このシステムは、人類が自分自身を経験する方法を変貌させた。」(B)
(続く)