太田述正コラム#6989(2014.6.10)
<中東イスラム世界の成り立ち(その3)>(2014.9.25公開)
七 トルコ人
 エジプトは、1517年にオスマントルコ帝国によって征服され、エジプトは同帝国の属州になりますが、マムルーク達の力が引き続き残っていたことから、トルコ人達はマムルーク達を通じてエジプトを統治し、エジプトは半独立の状況が続きます。
 何と言うことはない、エジプト人は、トルコ人とチェルケス人等による二重の搾取の下に置かれるに至ったと言うことです。
 その上、それまでは、欧州とアジアを結ぶ交通の要衝を占めていたエジプトであったところ、ポルトガル人が喜望峰回りの航路を開拓し、アジアと直接交易に乗り出すと、エジプトの商業上の地位は大幅に低下してしまいます。
 このような背景の下、エジプトは、1687年から1731年の間に6度も飢饉に襲われた挙句、その後の1784年の飢饉では、6分の1の人口を失うに至ります。(B)
八 フランス人
 ナポレオンの遠征により、1798年、エジプトはフランスに占領されるも、早くも1805年に英国に地中海での海戦で敗れたためにフランス軍は撤退するのですが、短期間とはいえ、この占領は、エジプトの支配者や支配を目論む勢力に強烈なインパクトを与えることになります。
 フランスが去った後、マムルーク、オスマントルコ、及び、オスマントルコが派遣したアルバニア人傭兵部隊の三者の間でエジプトの支配をめぐって熾烈な闘争が行われ、これに勝利を収めた、オスマントルコ領マケドニア出身のアルバニア人傭兵部隊長のムハンマド・アリー(Muhammad Ali)がエジプトの新支配者になり、ムハンマド・アリー朝を樹立します。(B)
 ムハンマド・アリーが、後に、フランスに留学させたリファ・アル・タハタウィ(Rifa’a al-Tahtawi。1801~73年)の強い影響力の下、(遅きに失した感があるものの、)古代エジプトへの関心の高まりを含む、エジプトのルネサンスが始まるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rifa%27a_al-Tahtawi (及びB)
九 アルバニア人
 こういう次第で、エジプトは、今度はアルバニア人に支配されることになったのです。
 1820年に長繊維綿(long-staple cotton)がエジプトに導入され、19世紀末近くになると、輸出用の綿花栽培の普及に伴い、土地所有の集中化が起こります。(B)
 また、(後述するように、)ムハンマド・アリー朝は、軍隊を中心とする近代化に向けた努力も行うのですが、そのための経費も嵩みます。
 こういったことから、支配者によるエジプト人の搾取は、一層高度化する形で続くことになりました。
十 英国人
 外国人によるエジプト支配のしんがりを務めたのが英国人です。
 「1869年に<ムハンマド・アリー朝>はフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、<英国>の進出を招いた。1882年に・・・起きた反英運動・・・も<英国>によって武力鎮圧され、エジプトは<英国>の保護国とな」ってしまい(A)、ムハンマド・アリー朝は、いわば身から出た錆で、エジプトを英国の保護国にしてしまったことになります。
 ここに再び、二重の支配者・・今度は英国人とアルバニア人・・による搾取が始まることになります。
 このような背景の下、1919年に、エジプトで再び反英運動、今度は英国からの独立を求める革命、が起き、1922年にエジプトは独立を達成し、エジプトは、(二重の搾取を形の上では解消し、)英国に倣ったところの、ムハンマド・アリー朝の国王を戴く立憲君主国になるのです。(B)(注3)
 (注3)英軍がその後もエジプト駐留を続けた故に、この「独立」は形式的なものに過ぎなかった、というのがA(日本語ウィキペディア)のトーンだが、この伝で行けば、現在の日本の(対米)独立も形式的なものに過ぎない、すなわち、日本は米国の保護国である、という私の指摘にこのウィキペディアも同調していることになる。
(続く)