太田述正コラム#7023(2014.6.27)
<キリスト教と資本主義の両立可能性(その2)>(2014.10.12公開)
  (3)マイケル・ノヴァク(Michael Novak)
 問題提起にどう答えるかは、資本主義の意味するところをどう捉えるかによる。
 私は、法王ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)が提供した定義・・「ビジネス、市場、及び、個人財産の根本的かつ積極的な(positive)役割、そして、結果としての(resulting)生産諸手段に対する責任、並びに、それを全体的な人間の自由のために使役するところの強い司法的枠組みによって境界線を描かれた…経済部門における自由な人間活動、を認める経済体制」・・が好きだ。・・・
 ヨハネ・パウロ2世が言うところの、「ノウハウ、技術(technology)とスキル(skill)」及び、「規律ある、かつ、創造的な人間の仕事(work)とその仕事の本質的な部分としてのイニシアティヴと企業家的(entrepreneurial)能力(ability)」が諸国民(nations)の富(wealth)の原因(causse)であることを他のシステムはどれも深く把握していない。・・・
⇒私見では、法王レオ13世は、長期的視点に立って、絶対王政期のアングロサクソン文明との対抗を経て市民革命以降のアングロサクソン文明の模倣によって生まれた、ナショナリズムやマルクス主義等の民主主義独裁の欧州文明を否定し、プロト欧州文明への回帰を目指した・・但し、プロト欧州文明(においてキリスト教会)が掲げた、配分的正義や公共善といった理念の実践を期す・・のに対し、法王ヨハネ・パウロ2世は、スターリン主義ロシアの事実上の占領下に置かれていたポーランド出身者として、スターリン主義ロシア打倒という短期的視点に立って、あえて、一見無条件でアングロサクソン文明を称揚してみせたのであり、レオ13世以降のカトリック教会は、一貫して、ヨハネ・パウロ2世も含め、ホンネではプロト欧州文明回帰志向なのです。(太田) 
 キリスト紀元の始めからの人口と所得<の推移の>図を見れば、その線が18世紀近くにわたって殆んど横ばいであった<ことが分かる>が、しかし、それが<資本主義の誕生に伴う(太田)>発明と発見(discovery)が導入(introduce)されると、この線は急激に上昇する。・・・
 資本主義の誕生以降の2世紀の間に、平均寿命は26歳から67歳へと延び、地球は空前の人間の命で溢れた状態になった。・・・
⇒私が何度も指摘しているように、イギリスは、当初から資本主義社会だったのであり、アングロサクソン文明は資本主義文明であると言ってもさほど誇張ではないことから、資本主義の生誕が2世紀前であったとのノヴァクの主張は誤りです。(太田)
  (4)エディー・S・グロード・ジュニア(Eddie S. Glaude Jr.)
 「見る人が見れば、<米国の>現状は、神の子供達たる我々がどうあるべきかについてのキリスト教的ヴィジョンに違背(contradict)していると思うことだろう。
 しかし、今日、我々は、米国のキリスト教・・黒人のキリスト教コミュニティを含む・・において、「繁栄福音(prosperity gospel)」と呼ばれてきたものをどんどん抱懐しつつあることを普遍的に見出す。
 この見解は、神が、宗教経験で信仰を新たにした(born again)<キリスト>教徒達が物質的に富んで病気に罹らないことを欲し給うとする。・・・
⇒このこと自体は、キリスト教の習俗化・・日本人が神社にお参りして金銭運や健康運を祈るのと似たようなもの・・に過ぎませんし、その限りにおいて、欧州文明的キリスト教のプロト欧州文明的キリスト教への回帰である、と見ることもできそうです。(太田)
 自由の諸夢が、富への願望(aspiration)、すなわち、我々の諸コミュニティと国を荒廃させているところの資本主義のヴィジョンに合致(suit)した神学、によって置き換えられているのだ。
 この富の福音は、恒久的な(durable)不平等に対する批判を鈍らせる。
 というのも、富と上方への移動性への願望が個人的な宗教的(spiritual)諸考慮に結び付けられているからだ。
 <すなわち、>富と貧困は、神の祝福または懲罰の証拠を構成しているのだ。
 顕示的(cospicuous)消費は信仰の作用(workof faith)の決定的(critical)部分、ということにあいなるわけだ。
 ここ<米国>では、キリスト教徒達は、<即、>「祝福された起業家達と消費者達」なのだ。・・・
⇒ところが、キリスト教の習俗化が、米国のような、市場原理主義志向、いや信仰、のある社会では、民衆にとっての阿片的機能を果たしてしまっているわけです。(太田)
(続く)