太田述正コラム#7025(2014.6.28)
<欧州文明の成立(続)(その1)>(2014.10.13公開)
1 始めに
 市民セミナー用に欧州文明の起源のスライドをつくろうとしてはたと困ったのは、一つは、私の言う、プロト欧州文明と欧州文明の間に過渡期があるのではないか、その過渡期はいつからいつまでで、それをプロト欧州文明と欧州文明のどちらに含めるべきか、という問題であり、もう一つは、アングロサクソン文明とプロト欧州文明ないし欧州文明との関係性をどう捉えるか、という問題です。
 前者は、殆んどこれまでコラムで取り上げていませんし、後者は、処々で取り上げてはいるけれど、まとまった形で論じたことがありません。
 そこで、急遽、この二つの問題「解決」を試みた次第です。
2 過渡期について
 (1)過渡期に係る歴史
 以下の歴史を、できれば熟読してください。
◎1337~1453年:英仏百年戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
・14世紀央:ウィクリフの活躍/農民叛乱
 ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe。1320頃~1384年)<(コラム#6310、6338、6973、6974)>「<イギリス>国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼<は>・・・聖書を英語に翻訳し<、>・・・聖書・・・を重要視し<た。>・・・<その上で、>ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、・・・等、・・・ローマ・カトリックを真っ向から批判した。・・・
 [彼は、1381年にオックスフォード大教員を逐われ、]・・・<更に、>死後30年ほど後、1414年のコンスタンツ公会議<(コラム#6310、6973、6974)>で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Wycliffe (上掲[]内)
 農民叛乱(Peasants’ Revolt=ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion))。1381年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peasants’_Revolt (下掲[]内も)
 ジョン・ボール(John Ball。1338頃~81年)<(コラム#1374、3467、3469、5744)>は「イギリスの神学者でロラード派[(Lollards=ウィクリフ信奉者達)]の・・・狂信的な神父で、ウィクリフの思想の影響から社会的不平等を告発した過激な思想を展開、巡回説教師として各地を回り農民、下層民に大きな影響を与えた。しかしそのあまりに過激で危険な思想を恐れられた<イギリス>政府に捕らえられ、破門されたうえ、投獄されてしまった。
 1381年、ワット・タイラーの乱が起こると獄中から救出され<、>ロンドン進撃を前に郊外のブラックヒースにて自らの思想を持って農民軍の士気を鼓舞したと言われている。その際の「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰がジェントリだったのか」という言葉は有名。
 しかし反乱が鎮圧された後、捕らえられて首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
◎15世紀初頭:フスの活躍
 ヤン・フス(Jan Hus。1369~1415年)<(コラム#6310、6973、6974)>は、「ボヘミア出身・・・<で、>ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られる。
 カトリック教会<によって>フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B9
◎16世紀前半:宗教改革/ドイツ農民戦争
 マルティン・ルター(Martin Luther。1483~1546年)<(コラム#198、3232、4812、4814、6171、6304、6338)>は、「1517年・・・贖宥状販売<を批判する>・・・『95ヶ条の論題』<を書く。>・・・<そして、>聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようと・・・呼びかけ<た。>・・・ルターの友人<の一人>・・・はルター説はかつて異端と断罪されたヤン・フスの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。・・・<更に、>ルターは・・・1534年に念願だったドイツ語旧約聖書<を>完成し、出版<し>た。・・・
 ルターは1523年の時点ではローマ・カトリックの反ユダヤ主義に抗議していたが、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望したルターは、1543年に反ユダヤ主義のパンフレット『ユダヤ人と彼らの嘘について』を書いた。・・・
 農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないと・・・かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァー<ら>は・・・社会変革を唱えるようにな<り、>・・・1524年から1525年にかけて・・・ドイツ農民戦争<を起こした。>・・・ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。・・・
 <なお、>聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた<ところ、ルターは>・・・15歳下の元修道女と結婚し、三男三女・・・をもうけた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC
 フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli。1484~1531年)は、ドイツ系スイス人であり、「<ルター同様、>キリスト教生活におけるすべての慣行を、聖書を基準にして再検討すべきだと考えた。・・・
 <(但し、後の1529年に行われた>ツヴィングリとルター・・・の会談<では、聖書解釈の違いから、両者は>・・・決裂し<ている。)>・・・
 チューリッヒ市<では>・・・最終的にツヴィングリの意見が勝利し、教皇制度と教会の聖職位階制度(ヒエラルキー)は否定され、市内の教会の聖画・聖像は破壊、修道院は閉鎖された。
 同時にツヴィングリは司祭独身制も不要のものと考えて撤廃したが、これは教義的な理由というよりもすでに自分がアンナ・ラインハルトという未亡人と同棲生活をしていたからであったといわれている。・・・
 カトリック側にたつ<諸州等との戦争の中で、>・・・チューリッヒ軍は打ち破られ、乱戦の中でツヴィングリも戦死した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA
 ジャン・カルヴァン(Jean Calvin。1509~64年)は、フランス生まれであり、「1541年<から>、市民の懇請によって<、ツヴィングリの考えをもとに、>ジュネーヴ<で、>以後30年近くにわたって、・・・神政政治<(theocracy)>・・・を行い、市民の日常生活にも厳しい規律・戒規を求めた。
 1553年、・・・異端者<と>・・・された・・・<ある>神学者・・・<を>生きながら火刑に処<し>た。・・・
 カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3
 [参考]1534年:イギリスのヘンリー8世、カトリック教会と決別し、英国教会を樹立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC8%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
◎1585~1604年:英西戦争
 反カトリックのイギリス王国とカトリックのスペイン世界帝国の引き分けに終わった断続的戦争。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%A5%BF%E6%88%A6%E4%BA%89_%281585%E5%B9%B4%29
 [参考]スペイン世界帝国の版図。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iberian_Union_Empires.png
 [参考]スペイン国王フェリペ2世(Philip II。1527~98年)の下で幼少時、スペインで過ごしたルドルフ2世(Rudolf II。1562~1612年。皇帝:1576~1612年)・・フェリペの妹の子であるとともに、(その妹の夫であるところの、)従弟の神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子・・は、英西戦争の間、神聖ローマ皇帝に加えてハンガリー王兼ボヘミア王だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A2%E4%B8%96_%28%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B%29
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%952%E4%B8%96_%28%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D%29
◎1562~98年:フランス宗教戦争/1618~48年:30年戦争
 フランス宗教戦争(French Wars of Religion=ユグノー戦争)は、「フランスのカトリックとプロテスタント<(=ユグノー(Huguenots)(コラム#3、129、381、2022、2321、2943、3708、4314、6002、6012、6204、6246、6674))>が休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦」[死者:2,000,000~4,000,000人]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
http://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion ([]内)
 30年戦争(Thirty Years’ War)<(コラム#61、100、129、162、432、497、1019、1834、1839、2114、2712.3718、3940、4131、5126、5132、5727、5996、6014、6047、6180、6182、6190、6248、6256)>は、「ボヘミア・・・におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容される<。>・・・<死者:>8,000,000人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
◎16~18世紀:フランス絶対王政
 絶対王政は、「中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から王が強大な権力を持って中央集権化を図り、中央官僚と常備軍(近衛兵)によって国家統一を成し遂げた時代に特徴的であった政治形態を指す。かつて、マルクス主義においては封建主義社会から資本主義社会への過渡期に現れたと位置づけられ<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%8E%8B%E6%94%BF
 「1610年に即位したルイ13世<(コラム#162、802、2868、6180)>は幼かったものの、王母マリー・ド・メディシスと摂政となったリシュリューの政策によって、フランスの絶対主義体制が整えられていった。またドイツで起こった三十年戦争[にカトリック側に立]って、支援介入し、国際的地位を確立していった。・・・
 アンリ4世の孫、・・・ルイ14世<(コラム#162、801、802、1136、1522、1560、1794、1805、3649、3594、3741、4214、4605、6162、6166、6180、6225、6461、6597、6674、6885)>は摂政であったマザランの死後、親政を開始した。このルイ14世の時代にフランスの絶対王政が確立し、フランス文化(ヴェルサイユ文化)と呼ばれる文化も発展した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%B3%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A413%E4%B8%96_%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%29 ([]内)
(続く)