太田述正コラム#7033(2014.7.2)
<欧州文明の成立(続)(その5)>(2014.10.17公開)
そもそもまともな封建制も経験せず、また、宗教改革も宗教的内戦も(後で言及しますが)絶対王政も市民革命とも無縁だったのですから、イギリスは、(「発展」して行く)欧州とは全く異質な(いわば不変の)文明に属する、というかねてからの私の指摘について、改めて正しそうだな、と膝を叩かれた方も少なくないのではないでしょうか。
 さて、このあたりで、プロト欧州文明から欧州文明への過渡期についての、私の考えをご披露しておきましょう。
 それは、宗教改革とそれにひき続く宗教的内戦、及び啓蒙主義、並びに絶対王政の時代であり、その終わりを画した、換言すれば欧州文明が始まったのは、啓蒙主義が引き起こしたところの市民革命であった、というものです。
 「宗教改革とそれにひき続く宗教的内戦」は、イギリスの宗教観に触発され、また、啓蒙主義はイギリスの思想に触発され、更に、(後で言及しますが)絶対王制はイギリスの国の在り方に触発されたものです。
 「啓蒙主義はイギリスの思想に触発され」については、過去の関連コラムを読み返していただきたいが、それ以外は、本シリーズのこれまでの記述からも首肯していただけるのではないでしょうか。
 銘記すべきは、これらの「触発」が、「誤解」、「曲解」を伴ったことです。
 いずれにせよ、プロト欧州文明から欧州文明への過渡期は、欧州が、異質なイギリス(アングロサクソン)文明に触発されて文明の再構築を模索しつつイギリスに対抗した時代であるところ、やがて、欧州は、アングロサクソン文明に対抗するのを諦め、アングロサクソン的なものの考え方を、啓蒙主義者達が模倣し、改善したという触れこみの、民主主義独裁イデオロギー・・カトリシズムに代わるもの・・を掲げた、欧州文明の時代を迎えるのです。
 私は、プロト欧州文明の時代とは違って、欧州が、アングロサクソン文明の強い影響下に一方的に置かれた、という共通点に着目し、欧州における、過渡期と(狭義の)欧州文明の時代とを一括りにして、(広義の)欧州文明の時代と呼ぶことにしたいと考えている次第です。
3 アングロサクソン文明と欧州文明の関係の推移
 (1)欧州とイギリスの対抗時代
 では、引き続き、アングロサクソン文明と欧州文明の関係の推移を振り返ってみましょう。
 16世紀後半から17世紀初頭にかけての英西戦争(前出)で、イギリスをプロト欧州文明圏に復帰させることを目論んだスペインをイギリスが迎え撃つことによって、最終的に、イギリスはプロト欧州文明の解体に成功します。
 引き分けに終わったのにどうしてスペインが背負っていたプロト欧州文明は「解体」されたのでしょうか。
 (前述したところの、)イギリスとスペインの、この戦争当時の対峙状況を振り返ってみてください。
 欧州の殆んど全域が、スペイン、及び、スペイン・ハプスブルク家と二重三重の血縁関係で結ばれていたオーストリア・ハプスブルク家の統治下にあったことに加えて、スペイン(及びスペインと同君連合関係にあったポルトガル)が保有していた全球的海外帝国を従えたスペインと、アイルランドを事実上支配下に置いていたとはいえ、大ブリテン島の全域をまだ統治下に置いていなかった、ちっぽけな島国であるイギリスとが戦ったのですから、引き分けに終わったこと自体が奇跡に近い、としか形容のしようがないのです。
 そんな結果になったことについては、三つの大きな要因があります。
 一つは、フランスと違って、スペインには、ナショナリズムの原初形態が喚起される基盤が、(余りに大きくかつ複雑な帝国であったことから)なかったため、戦争を生業にする人々からなるイギリス軍・・私掠船を含む・・と戦争を生業にしていない人々からなるスペイン軍とでは、個々の戦闘において、後者が前者に勝利を収めることは容易ではなかったことです。
 もう一つは、(そこまで、イギリス側が企んだわけではなかったとはいえ、)イギリスの宗教観の影響を受けた欧州での宗教改革の結果、欧州内において、イギリスに与する、反カトリシズム(=プロテスタント)勢力がスペインの足を引っ張ったことです。
 スペイン領ネーデルランド中のプロテスタント諸州(オランダ)は、1568年から独立闘争を行っており、スペインに、イギリス直近からの安全な出撃拠点を与えないばかりか、イギリス側に立って戦いました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eighty_Years’_War
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604)
 また、フランスは、フランス宗教戦争(ユグノー戦争。1562~98年)の渦中にあり、ユグノー勢力はイギリスの味方でしたし、もともとはユグノーで、フランスの統治の都合上、やむなくカトリックに改宗した、フランスのアンリ4世(Henry IV)も、イギリス側に立って1595~98年の間、スペインと戦っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604) 前掲
 もとより、イギリスが、世界中、就中アメリカ大陸の富を略奪も含めてかき集めていたスペインに圧倒されないだけの豊かな社会であって、海軍力等を整備する資金面で決してひけを取らなかったことも忘れてはならないでしょう。(典拠省略)
 そして、この戦争の結果、イギリスの私掠船によって大打撃を受けたスペインの商船隊は再び立ち直ることができず、爾後、イギリスとオランダがスペインの世界貿易まで担うことになるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604) 上掲
 全欧州は、この結果に震撼したに違いありません。
 
(続く)