太田述正コラム#7041(2014.7.6)
<キリスト教と資本主義の両立可能性(その3)>(2014.10.21公開)
  (5)コリーン・キャロル・キャンベル(Colleen Carroll Campbell)
 「ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)の民主主義についての警句(quip)をもじって言えば、資本主義は、最悪の経済システムだ、但し、他の全てを除き、なのだ。・・・
 ヨハネ・パウロ2世<は、>1991年<に資本主義を批判する>回勅を書いた<のは確かだが、彼は、>・・・同時に、「消費社会は、人を、経済及び物質的諸ニーズの充足の分野に矮小化させている」と、諸道徳抜きの諸市場を激しく叱責(blast)もしている。
 彼の後継者の法王フランシスコは、昨年秋の自身のローマ法王としての奨励(apostolic exhortation)の機会に、「無抑制の消費主義(unbridled consumerism)」や「トリクルダウン諸理論(trickle-down theories)」<(注5)>から「排除と不平等の経済」や「市場の絶対的自律(autonomy)を擁護する諸イデオロギー」に至る、全てを批判した。
 (注5)「「トリクルダウン(trickle down)」という表現は「徐々に流れ落ちる」という意味で、大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる」とする仮説である。・・・トリクルダウン理論は、新自由主義の代表的な主張の一つであり、この学説を忠実に実行した時の<米>大統領ロナルド・レーガンの経済政策、いわゆるレーガノミクス(Reaganomics)について、その批判者と支持者がともに用いた言葉でもある。・・・現状では、<この仮説>を裏付ける有力な研究は存在しないとされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%90%86%E8%AB%96
 フランシスは、自由市場愛好家達(circles)から盛んに批判され、後に自分はマルクス主義者ではない、と宣明した。
 しかし、彼であれ、他のどの法王であれ、<その人物が>リバタリアンであると勘違いしてはならない。
 イエスだって<リバタリアン>の要件を充たしてはいない。
 確かに、彼は自由を褒めちぎった(touted)が、それは、善いことをするための、神と隣人を愛するための、利己主義の牢獄を脱出するための自由だ。・・・
 <いずれにせよ、>我々が資本主義の行き過ぎ(excesses)<論>を無批判に抱懐したり、それを我々の個人的社会的諸原罪の全てについての贖罪の山羊にしたりすることによって、この緊張関係から逃れる方法を見つけたと信じるや否や、実は、我々が偶像(idol)を見つけたに他ならないことにかなりの確信を持ってよい。」
  (6)ジェームズ・K.A.・スミス(James K.A. Smith)
 「キリスト教は、間違いなく、自由諸市場と両立不可能ではない。
 実際、かかる諸市場の出現、及び、それらによって生み出された繁栄は、色々な形で、繁栄と自由とを二つながら尊ぶ(prize)キリスト教の世界観の資本に依拠しているのだ。
 しかし、キリスト教は、社会内における増大する不平等性を伴うところの、「現代の(contemporary)」資本主義とは両立不可能になりつつあるのかもしれない。
 (もっとも、トマス・ピケティが示唆しているほど<まだ>悪い状況ではないのかもしれないが・・。)
 キリスト教は、リバタリアニズム・・種々欲するところのもの(wills)を巡る戦争において全員を全員と競わせる(pits)ところの社会的アトミズム(atomism)にルーツを持つイデオロギー・・とは両立不可能だ。
 資本主義は本来的にリバタリアンであるわけではないので、リバタニアリズムのような歪んだ社会的存在論(ontology)と組めば(wed)組むほど、根本において共同体志向(communitarian)であるところのキリスト教とは、より非両立的な存在となる。
 <すなわち、>資本主義が公共善の駆動力であることを止めた時、それはキリスト教とは非両立的な存在となるのだ。
 キリスト教は一貫して貪欲に対して批判的であり続けている。
 だから、執行役員報酬におけるできる限り全てのものを掴みとれ(grab-all-you-can)というアプローチには憂慮せざるをえない。
 <米国で、>1982年には、首席執行役員対労働者(chief executive-to-worker)給与比は42対1だったが、2012年には、354対1にもなっている。
 今日、キリスト教が憂慮すべきは、アダム・スミス(Adam Smith)のつまみ食い的承継だ。
 すなわち、我々は『諸国民の富』を尊んできたが、彼の『感情道徳論』を無視してきた。
 我々は、<彼が指し示した>自利の魔法には飛びついたけれど、彼の徳についての諸託宣(counsels)を忘れてしまっているのだ。・・・
 キリスト教は、労働者のための正義にも同様憂慮を抱いている。
 法王レオ13世やプロテスタントたる政治家のアブラハム・カイパー(Abraham Kuyper)<(コラム#6865)>のような人物達は、諸市場の善と諸協同(union)の双方を主張(affirm)した。
 彼らは、資本主義と搾取とを等号で結びはしなかったが、労働と労働者達の尊厳と価値を守る必要性は見出していた。
 この憂慮は、今日においても、同様に正しいもの(valid)であり続けている。」
(続く)