太田述正コラム#7051(2014.7.11)
<キリスト教と資本主義の両立可能性(その5)>(2014.10.26公開)
彼自身の時代において、彼は、全球的なセレブだった。
 社会的かつ政治的改革の無数の実践的諸努力が彼や彼の使徒達・・そのうちの最も有名な人物はジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)<(注14)>・・から霊感を引き出した。
 (注14)1806~73年。「イギリスの哲学者で・・・社会思想家、経済思想家でもあ<る。>・・・ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。・・・<但し、彼>の功利主義は、快楽について、ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。・・・<なお、>彼の提案した「危害の原理」・・・とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。・・・<但し、>政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行なうことに期待して<おり、>・・・社会主義的<な側面も持ち合わせていた。>・・・<そして、>経済成長を自明のものとしなかったため、いわゆる「定常型社会」論の先駆と見なされることもある。・・・また、論理学分野においてバートランド・ラッセルら後続の分析哲学にも強い影響を与え<た。>・・・学校へ行かず・・・父親によって教育され・・・専門職としての「学者」であったこと<も>一度も無い。・・・無所属下院議員<を>・・・短期間<務め、>・・・アイルランドの負担軽減を主張し、・・・下院における最初の婦人参政権論者となっている。<また、>・・・比例代表制、普通選挙制など・・・を主張した。・・・<スコットランドの>セント・アンドルーズ大学の学長<も務めている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB
 彼の父親のジェームズ・ミル(James Mill。1773~1836年)は、「スコットランドの歴史家、哲学者にして経済学者である。・・・ベンサムの友人として知られるが、自身も重要な功利主義者である。・・・エジンバラ大学を卒業した。東インド会社の社員でもあった。・・・スコットランド長老派の信仰により育てられたが・・・キリスト教を嫌悪の気持ちで見るようになり、やがては・・・すべての宗教を道徳的悪として反対する<に至った。>・・・晩年には特に、支払わねばならない代償に見合うだけの快楽はほとんどない、と考えるようになった。ゆえに最大の徳は「節制」であり、これが教育の中心になるべきである<とした>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB
⇒ミルは、父ミルと一体のものと見ることができますが、彼らは、同じスコットランド人同士として、アダム・スミスと同様の問題意識をもって、(しかも、キリスト教を完全に放擲した世俗的な観点から、)イギリスを外側から観察するも、スミスとは違って、イギリス文明、というかアングロサクソン文明、のメインたる個人主義/資本主義とそれを補完する人間主義を、互いに切り離した形で別個にそれぞれ理論的に提示するのではなく、統一的な形で理論的に提示することを目指した、と私は受け止めています。
 しかし、(想像するに、)前者の優位の下で安定的最適解が存在することを証明できないこともあって、彼らはそれに失敗した、というのが私の認識です。
 そんなことを試みるのではなく、アングロサクソン文明に対して批判的な立場に立って、それに代替されるべきものとして、日本文明の近現代バージョンであるところの、人間主義をメインにし、それを補完する個人主義/資本主義からなる、日本型政治経済体制を推奨し、その体制を理論的な形で提示した上で、そのような体制には安定的最適解が存在することの証明を試みるべきだったのです。
 以上のようなことを、より学術的な形で、いつか誰かが書いてくれることを期待しています。(太田)
 1790年代から、英国、フランス、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、そしてラテンアメリカ全域で、自由主義的な諸政府と政治家達が、彼の助言と助力を求めた。
 彼は、革命期のフランスによって名誉市民とされ、グァテマラの指導者のホセ・デル・ヴァレ(Jose del Valle)<(注15)>は彼を「世界の立法者」と絶賛した。
 (注15)1780~1834年。植民地から独立への移行期における中米の最も重要な人物の一人たる、哲学者、政治家、法律家、ジャーナリスト。現在のホンデュラス生まれでグァテマラ市のサン・カルロス大で教育を受ける。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Cecilio_del_Valle
 英語圏が、これほど広範な分野の事柄にわたって、政治活動を行いかつ国際的に影響力ある思想家を生み出したことはなかった。
 独立コロンビア共和国の最初の憲法群は、動物諸権の諸近代理論と同じくらい、ベンサムに、多くを負っている。・・・
 <その>彼の残した草稿群には、さしずめミルの顔を赤らめさせたであろう明快さ(explicitness)でもって、性技群、大人の玩具群、そして体位群に関する瞠目すべき若干の備忘録群が含まれていた。
 肉欲はベンサムの人生の単なる一部ではなかった。
 それは、彼の思想の根本(fundamental)だった。
 結局のところ、快楽(pleasure)の最大化が功利主義倫理の中心的目的(aim)だったのだから・・。
 伝統的なキリスト教における肉欲の抑制と自己規律の強調に代えて、ベンサムは、18世紀の他の多くの哲学者達と同じく、経済的消費の諸便益、世俗的諸嗜好(worldly appetites)の享受、そして、自然の諸熱情の自由、を追求した。・・・
 彼は、1785年に、性について考えることは、「最大、かつ恐らくは人間の唯一の現実の諸快楽」について考察することであって、しかるが故に、それは、「命に限りある人にとって最大の関心事項」でなければならない」と記している。
 1770年代から1820年代にわたる彼の成人時代の人生を通じて、彼は、何度も何度もこの話題を繰り返した。
 個人的備忘録群と論文群の数百頁にわたって、彼は、性的諸活動を取り巻いていた非合理的かつ宗教的な諸禁忌を脱ぎ捨てさせよう(strip away)と試みた。・・・
 ベンサムの性的自由への思い入れ(obsession)の主要な刺激(impetus)は、彼の社会における、同性愛の男達への厳しい迫害から来ていた。
 1700年頃から、「自然な」性と見られたものへの許容度の増大は、欧米世界全域にわたる、「不自然」とされる諸行動に対する研ぎ澄まされた嫌悪感をもたらした。
 ベンサムの生涯を通じて、イギリスで、同性愛者達は、頻繁に迫害されたり、晒し台、亡命、ないしは公的辱め(public disgrace)によって人生が台無しにされたりした。・・・
 しかし、ベンサムの死後、性についての彼の大量の草稿群は姿を消した。
 彼のヴィクトリア朝的編集者達は、それらを公衆の目から隠したのだ。」
⇒ベンサムが、イギリス固有の個人主義/資本主義の価値基準に則り、キリスト教に由来する禁欲的倫理・・偽善的倫理と言うべきか・・と戦い続けたことがお分かりいただけたことと思います。
 奇しくも、ベンサムが生まれた1748年に、欧米世界最初の散文ポルノにしてポルノ小説である、『ファニー・ヒル(Fanny Hill)』(コラム#5260)がロンドンで出版されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pornography
http://en.wikipedia.org/wiki/Fanny_Hill
(完)