太田述正コラム#7053(2014.7.12)
<イギリス人の民主主義嫌い再訪>(2014.10.27公開)
1 始めに
 イギリス人の民主主義嫌いについては、ずっと以前に(コラム#91で)取り上げたことがありますが、もう少し論じたいと気持ちをずっと持っていました。
 ジョン・ダン(John Mountfort Dunn)が『民主主義の魔法を破る(Breaking Democracy’s Spell)』を上梓したので、その書評等に基づき、概要を紹介し、私のコメントを付したいと思います。
 残念ながら、今月上梓(予定?)ということもあり、書評がFTの一つしかなく、しかも、余り分かり易い書評ではないのですが・・。
 
A:http://yalebooks.co.uk/display.asp?K=9780300179910
(広告文)
B:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/f5ff744a-082b-11e4-9afc-00144feab7de.html?siteedition=intl#axzz37DRic99N
(書評)
 なお、ダンは、1940年生まれのケンブリッジ大卒のケンブリッジ大名誉教授たる政治理論家であり、現在、千葉大の客員教授を務めている、という人物であって、
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Dunn_(political_theorist)
筋金入りのイギリス知識人、と見てよいでしょう。
2 広告文より
 「著名な政治理論家のジョン・ダンは、この時宜を得た重要な著作の中で、民主主義は良い政府と同義ではない、と主張している。
 著者は、民主主義の基礎的概念の背後にある迷路的現実を探索し、欧米の人々が一般に単純明快で明白であると見ているところの、この政治体制が、実は、どれほど深く不明確で、多くの場合、機能不全を起こすものであることを論証する。
 ・・・この本は、民主主義が道徳的正統性を持つ唯一の政府形態になった経路を素描し、現代米国の民主主義の諸矛盾と諸陥穽を分析した上で、この甚だしく(widely)勘違いされている(misrepresented)政治制度について、より首尾一貫した理解を世界に与える責任を担うようにせよ、と学界に挑戦状を叩きつける。
 自由経済学と自由民主主義のいわゆる理想的な結婚がその継続(continuance)はもとより、現代生活における諸問題に本気で取り掛かる(address)ことすら保証しないことを示唆しつつ、この勇敢な分析は、どのように我々がかくも民主主義の魔法にとらわれてしまい、どうして今や我々がその魔法を破ることを学ばなければならないか、を示そうと試みている。」(A)
3 書評より
 「<この本は、著者が>エール大学で行った4つの講義を集めたものだが、そのうちの一つである「民主主義の力を診断する」は、とりわけ米国において、いかに容易に民主主義がそれが狙っているところのものからはずれてしまうかを示している。
 人々が自分達の指導者達を選ぶ権利を過小評価することこそ決してないけれど、ダン教授は、そのことと、自治(self-government)との鮮明なる区別を行う。
 「今日の米国を監察した者なら、だれであれ、正気であれば、それが人々<(人民)>によって統治されていない、という結論しか下しえないだろう」と彼は記す。
 同時に、人々が自分達の統治者達を選ぶ権利は故あることであることを認め(grant)つつ・・。
 欧米の人々は、「幸福な偶然(accident)と魔法の公式(fromula)」とを区別することに長けていない、と。
 民主主義は良い政府の同義語ではない、と。
 歴史の大部分においてそれはその反対だった、と。
 ダン教授の見解では、民主主義は、法と理性(reason)に単に無関心であったのではなく、それらに敵対的だったのかもしれないのだ。
 <実際のところ、>選ぶのを強いられた場合、大部分の人々は、民主主義ではなく法の方を好んだことだろう、と。
 この見解は、2001年に<論文で?(太田)>で提示されたが、それはウクライナで正しいことが裏付けられた(vindicated)。
 一般的に言って、欧米の観察者達は、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ(Viktor Yanukovich)大統領が、民主主義的に選出されたという根拠で腐敗が放置されるのではなく、追放されるのを見たがった<ではないか>。
 欧米の諸野党は、不人気な政治家達を、より速やかに止めさせる諸方法を実験しつつある。
 米国の体制においては、<大統領に対する>議会による諸調査、諸弾劾、そして諸辱めが、英国及び欧州の諸議会で不信任投票が果たしているのと殆んど同じ役割を果たすことができる。
 仮に、民主主義と良い政府との関係がかくも微妙(tenuous)であるとすれば、どうして民主主義の諸制度があれほど強い印象を与える正統性を獲得しているのかを知るのは価値のあることだ。
 ダン教授は、いくつかの解答群を与える。
 <まずもって、>民主主義には、2011年のアラブの諸崛起におけるように、専制的な軛を投げ捨てる力がある。
 たとえそれが、他の軛を付けることになるのを意味しようと・・。
 <また、>一人のお仲間の輩の意思に屈することよりも民主主義的な流れと共に歩むことが自分達の自尊心と衝突することがより少ないことをも<人は>見出す。
 ダン教授の見解では、これらの諸理由は、民主主義がその連隊旗群を「平等主義的再建なる巨大な初期の(inchoate)運動」に引っかけていた頃にはもっと魅力があったのだ。
 <しかし、>社会主義がその光沢(lustre)を失うと、民主主義もまた、その光沢を失ってしまった。
 「この<民主主義という>言葉を全球の浜辺にまで今日運んで行ったものは、圧倒的な度合いまで一つの事柄、すなわち、それが米国の政治を説明するのにそれ自身が演じた役割、だった」と彼は記す。
 そうであるとすれば、ベイナー(Boehner)<(注)>氏がオバマ氏に浴びせかけた反民主主義的ふるまいに対するもっともらしい諸非難を看過することはできない(hard to brush off)、ということを意味することになる。
 (注)John Andrew Boehner(1949年~)。米国「の政治家。共和党所属。第61代合衆国下院議長。・・・苦学しゼイビアー大学に進み経営学の学士号を取得。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
 彼らは言葉でもって戦っているわけだ。(They are fighting words.)
 <しかし、>それは不可避なことなのだ。
 民主主義は、軽やかな(with a light touch)政府の同義語ではないからだ。
 いかなる耐久性ある民主主義も余裕安全率(margin of safety)を<確保することを>必要とする。
 「諸民主主義国家においては、予想される世論の振れによって打倒される危険を起こさないためには、許されそうに見える(might seem warranted)程度よりもっと高圧的に統治が行われる傾向がある。
 「実際、米国の民主主義の、強い印象を与える、長命と空間的広大さは、民主主義<一般>の歴史的卓越性(historical distinction)の主張の最大の根拠であるところ、<米国の>それは、最高権力者の(sovereign)選択の諸帰結が巨大な射程(renge)となることへの過剰な公認(excess authorisation)…を伴ってきたに違いないことを保証している」とダン教授は記す。
 <ところで、>ダン教授のこの挑発的な本を一貫して流れる一つの主題は、民主主義は、偏狭な人々を、より全球的な意識を持つように命ずる(summon)というものだ。
 <しかし、この点についても、>誰しもがそれを運の良いことだと思うわけではない。」(B)
3 私のコメント
 この書評の難解さが本自体の難解さの反映なのか、それとも書評子が難解な文章を好んで書く人物なのかはともかく、難解な文章を通じても汲み取ることができるのは、筆者が民主主義を嫌っており、民主主義がいわばウリである米国に対して、韜晦しつつも根源的な批判を投げかけていることです。
 私に言わせれば、ダンが民主主義嫌いであることは、彼がイギリス人たる知識人である以上、不思議でもなんでもないわけですが、彼が、あえて踏み込んで、かかる感覚に基づいて米国批判に及んだ点は珍しいのであって、称賛に値すると思います。
 ここからも見えてくるのは、英領北米植民地(の相当部分)が、民主主義を掲げて独立革命を起こし、それに「成功」したことが、欧州の背中を押して、まず、フランスにおいて、民主主義を掲げたフランス革命を引き起こし、その結果、欧州において、民主主義の最も危険で醜い堕落型たる、諸民主主義独裁が生み出されたことの悲劇性です。