太田述正コラム#7067(2014.7.19)
<米独立革命とキリスト教(その2)>(2014.11.3公開)
 「(「米独立革命の詩人」)フィリップ・フレスノー(Philip Freneau)<(注6)>が、自然の神について何か本質的なことを顕現させたいと欲した時、彼は、ルクレティウスの言葉をしゃべった。
 (注6)1752~1832年。ユグノーの父とスコットランド系の母のもとに生まれる。プリンストン大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Freneau
 「<英領北米植民地では、>18世紀には・・・詩に合う主題としてアメリカそのものが注目されるようになった。この傾向は・・・フレノー・・・の作品で最も顕著である。フレノーはその著作の中でインディアンに対する異常なくらい同情的な姿勢でも著名であり、時にはイギリス系アメリカ文化や文明に対して懐疑的な考察もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A9%A9 的な記述は、上掲の英語ウィキペディアには全く登場しない。
 そして、トーマス・ジェファーソンは、有名にも、「私もまたエピキュリアンである」と告白した。・・・
 もし我々が、我々自身が直接依拠した典拠に限定するならば、米哲学は、その起源において大部分英国的であるように見えるだろう。
 最も有名な影響と言えば、間違いなくイギリスの哲学者のジョン・ロックだ。
 しかし、例えば、ジェファーソンの学生時代のノート群、フランクリン(Franklin)の初期の著述群、ヤングの新聞記事群をより深く読み込めば、大部分が英国人の名前群であるところの、哲学者にして政治家のボリングブローク(Bolingbroke)卿<(注7)>、革命殉教者のアルジャーノン・シドニー(Algernon Sidney)<(注8)>、形而上学的詩人のアレキサンダー・ポープ(Alexander Pope)<(注9)>、理神論者のシャフツベリー(Shaftesbury)<(コラム#517、6453))>、ホイッグの論争家(polemist)達であるトーマス・ゴードン(Thomas Gordon)<(注10)>とジョン・トレンチャード(John Trenchard)<(注11)>、自由思想家達であるアンソニー・コリンズ(Anthony Collins)<(注12)>とジョン・トーランド(John Toland)<(注13)>、及び種々のスコットランドの哲学者達が立ち現われてくる。
 (注7)Henry St John, 1st Viscount Bolingbroke(1678~1751年)。イギリスの政治家、行政官、政治哲学者。イートン校、オックスフォード大卒。トーリーの指導者。反宗教的諸見解と神学への反対にもかからわず、政治上の理由で英国教会を支持。1715年のジェームズ党の叛乱で叛乱側を支持し亡命。後に赦されて帰国。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_St_John,_1st_Viscount_Bolingbroke
 (注8)1622~83年。イギリスの政治家、哲学者。「天は自ら助くるものを助く。」という言葉で有名。
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC
 議会軍で活躍した後、長期議会の議員となり、チャールズ1世の裁判の主宰者(commissioner)になった。国王の処刑には反対したが、後に大逆罪で死刑。
http://en.wikipedia.org/wiki/Algernon_Sidney
 (注9)1688~1744年。「イギリスの詩人。・・・生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、幼少の頃から詩作を試みた。・・・理神論を韻文にした・・・『人間論』(An essay on man<)を書いている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%97
 (注10)1691~1750年。スコットランドの著述家にして共和主義を唱える。アバディーン大で学んだと推定される。ホイッグの立場でトレンチャード(下出)と何本もの論考を共同執筆。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Gordon_(writer)
 (注11)1662~1723年。イギリスの著述家にして共和主義を唱える。ダブリン大卒の弁護士、下院議員。英国の政治体制に内在する腐敗と道徳性の欠如を非難し、専制(tyranny)に備えよと警告した。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Trenchard_(writer)
 (注12)1676~1729年。イギリスの哲学者にして理神論の賛同者。イートン校、ケンブリッジ大卒。ミドルテンプル法学院で学ぶ。極端な決定論たる必然論(necessitarianism)を唱える。
http://www.wikipedia.or.ke/index.php?title=Anthony_Collins
 (注13)1670~1722年。アイルランド人たる合理論哲学者にして自由思想家。アイルランド生まれで、グラスゴー、エディンバラ、ライデン、オックスフォード大で学ぶ。政治哲学と宗教哲学の著作多数。16歳の時にカトリックからプロテスタントに改宗。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Toland
 「1695年にロックが『キリスト教の合理性』で、理性の権威と聖書の権威が両立することを証明しようと努めたが、それでも「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」というとがめを受けた。ロックが知性の力で支持できない教説の地位を下げたことをさらに進め、1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%A5%9E%E8%AB%96 前掲
 しかし、更に興味深い問題は、これらの典拠群が依拠しているのは誰なのかである、ということが明らかになってくる。
 英国の初期の啓蒙主義は、実のところ、概ね17世紀に、そして大部分は欧州の大陸部において鍛造された急進的かつ中核的哲学を伝達(transmit)する役割を果たしたのだ。
 ジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、ピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi)<(注14)>、トーマス・ホッブス、そしてルネ・デカルト(Rene Descartes)は全員鍵となる貢献者(contributor)達だった。
 (注14)1592~1655年。「フランスの物理学者・数学者・哲学者。・・・ディーニュ大学<で>・・・言語学と数学に才能を示<し、>エクサンプロヴァンス大学で哲学を学<ぶ。>・・・<そ>の哲学史上最も大きな功績は、・・・「快楽主義」にまつわる偏見を取り除き、・・・エピクロス・・・の唯物論を復権したことである。・・・さらに唯物論と「無神論」が同一ではないことを・・・論証しようとした。・・・ガッサンディの死後、「理性」を強調するデカルト学派と「経験」を重く見るガッサンディの学派はパリ大学で対立しつつスコラ哲学の影響を掘り崩し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3
 私の見解では、米共和国の急進的諸基盤を最もよく説明するのは、上記の全てを、単一の著しく影響力のある体系にまとめ上げたスピノザなのだ。
 だから、私の哲学的なラシュモア山(Mt. Rushmore)の4つのくぼみ(slot)を埋めなければならないとしたら、私は、エピクロスの次に、スピノザ、ホッブス、そしてロックを据えるだろう。」(E)
(続く)