太田述正コラム#7312(2014.11.19)
<同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ(その3)>(2015.3.6公開)
 「<この本>は、経験主義(empiricism)に大いに留意している一方で、米国の例外主義には大いに軽蔑的であり、彼が、かつて、・・・ネオコン一派である・・・ビル・クリストル(Bill Kristol)<(注4)(コラム#1154、2488、2935、3200)>やチャールズ・クラウトハマー(Charles Krauthammer)<(注5)(コラム#1449、1460、4055、6406、6966、7079、7190)>と誼を通じ(、かつまた、同じ頁に並んで掲載され)た、ことを想起するのは馬鹿げているように見える。・・・
 (注4)William Kristol。1952年~。「ハーヴァード大学で政治学の博士号を取得・・・。ペンシルベニア大学およびハーヴァード大学ケネディスクールで政治哲学の講義を担当した後、レーガン政権の教育長官だったウィリアム・ベネットの首席補佐官、ブッシュ・シニア政権ではダン・クエール副大統領の首席補佐官などを歴任・・・2008年にはジョン・マケイン共和党大統領候補の外交政策アドバンザーを務めた。また1994年に、ジョン・ポドレツとともにネオコン系雑誌『ウィークリー・スタンダード』を創刊。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB
 父親は、ユダヤ系米国人で文芸批評家にしてネオコンの創始者のアーヴィング・クリストル(Irving Kristol。1920~2009年)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB
 (注5)1950年~。「フランス国籍を持つユダヤ人として、ニューヨークで生まれた。モントリオールで育ち、マギル大学に進学。1970年、政治学と経済学の学位を取得する。・・・オックスフォード大学・・・に留学する。その後<米国>に移り、ハー<ヴァ>ード・メディカルスクール<を卒業。>・・・<その後、>ニュー・リパブリック誌に寄稿を始める。1980年の大統領選挙では、ウォルター・モンデール・・・副大統領のスピーチライターを務めた。・・・大統領選挙の敗北に伴ってニュー・リパブリック誌で記者および編集者としての職を得る。1983年にタイムに寄稿を始め、1987年にはワシントンポストで毎週コラムを執筆するようになる。そこでの著作に対して同年ピューリッツァー賞を受賞した。・・・
 一般には保守主義者あるいは新保守主義者とされる<が、>・・・リベラルな側面もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%BC
 フクヤマはこの2冊の本でもって、政治学者の故サミュエル・ハンティントン(Samuel Huntington)<(注6)(コラム#2456、2856、3614、3771、4481、4487、4535、4595、4696、4759、4797、4905、6585)>の古典的な1968年の本である『変革期社会の政治秩序(Political Order in Changing Societies)』をアップデートすることを意図している。
 (注6)1927~2008年。「18歳で<エ>ール大学を・・・卒業し、陸軍に志願する。復員してからシカゴ大学で修士号取得。ハー<ヴァ>ード大学で・・・博士号を取得し<、>・・・<同>大学政治学部の教員として教鞭を執った。しかし、<同>大学が終身在職権付与を拒絶したため、1958年からコロンビア大学政治学部准教授とな<った。>・・・。1963年、ハー<ヴァ>-ド大学からの終身在職権付招聘に応えて<同大学>に復帰し終生在職した。1967年からジョンソン政権の国務省でベトナム戦争に関する報告書を執筆し、また大統領選でニクソンと争ったヒューバート・ハンフリー候補の選挙対策として演説原稿を執筆してもいる。カーター政権でも・・・国家安全保障会議に加わり、ブレジンスキーの下で勤務しており、ブレジンスキーと共に1978年に・・・FEMA・・・を創設し<た>。」主要著作は、『軍人と国家(The Soldier and the State: the Theory and Politics of Civil-military Relations)』、『変革期社会の政治秩序』、『第三の波――20世紀後半の民主化(The Third Wave: Democratization in the Late Twentieth Century)』、『文明の衝突(The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order)』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
 ハンティントンは、経済的進歩が直接、強力で、<民意に>応答的な(responsive)諸政府へと導くだろうという当時の一般的(popular)見解とは対照的に、安定的な諸民主主義国へと導く直線的な経路はない、と主張した。」(C)
 「我々全員、良い政府とはどうあるべきかについての感覚を持っているけれど、どうやってそこに到達するかについての手がかりは、我々は持っていない。・・・
 言うなれば、現実の(possible)諸世界中の最良のものにおいては、偽りなき(transparent)法の体系及び人々の意思によって、中央当局はチェックされ続ける。
 <その場合、>均衡的であることが決定的に重要なのだ。
 フクヤマは、「良い諸物事が全部一緒に進行する必要は必ずしもない」ことを強調する。
 つまり、彼の三つの諸要素は、それぞれ、本来的に(intrisically)良いものだけれど、それらはしばしば目的が相互に齟齬をきたす(work at cross purposes)、と。・・・
 歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)<(注7)(コラム#3655、4064、6891)>は、過去は、「…諸法則に従う義務のない(unamenable to)混沌」である、と言明したことがある。
 (注7)Arnold Joseph Toynbee。1889~1975年。「[]ウィンチェスター校、]オックスフォード大学卒業<([古典])>。[短期間、アテネの英国人学校(British School at Athens)で学んだ後、オックスフォード大]でギリシア・ローマの古代史研究と授業にあたる。・・・[そして、英外務省情報部勤務を経て、]キングス・カレッジ・ロンドンで歴史学の教授に就任。・・・<次いで、>ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授、王立国際問題研究所理事、外務省調査部理事等を務める傍ら・・・『歴史の研究』<等を執筆。>」
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 フクヤマは、ありがたいことに、この箴言を無視した。
 彼の謙虚さが厳格な発展の諸法則を提案させることを妨げつつも、彼は、トインビーの混沌に秩序らしきものを持ち込むところの、過多とも言える「おつ」(intriguing)な諸理論を提供している。・・・
 一般的な諸理論家とは対照的に、彼は、単一の大きな観念の誘惑に抗い、アイデンティティ、地理、商業、伝統、気候、そして単純な運、等の数多の諸要素の複雑な相互作用から秩序と無秩序が帰結するということを、より説得力ある形で主張する。
 フクヤマは、繁栄と民主主義との間に繋がりが存在することを認めるけれど、一方が自動的に他方へと導くと提案するほどナイーヴではないのだ。」(B)
⇒私自身は、現在、晩年のハンティントン同様、数多の諸要素を諸文明という形で整序するとともに、この数多の諸要素を普遍と特殊というもう一つの形でも整序し、この諸文明相互の、及び、人間主義なる普遍と種々の非人間主義なる特殊の間の、せめぎ合いという観点から、歴史や国際関係を見るに至っているところ、フクヤマよりもう少し「おつ」ではあるまいか、と自負(自画自賛?)しているところです。(太田)
(続く)