太田述正コラム#7320(2014.11.23)
<同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ(その7)>(2015.3.10公開)
 「フクヤマは、米国人改革家のギフォード・ピンチョット(Gifford Pinchot)<(注9)>の瞠目すべき諸努力についての詳細な描写を提供している。
 (注9)1865~1946年。米国の林務官(<Chief> Forester)にして政治家。エール大卒業後、フランスの国立森林学校で1年間学び、林務官を経てペンシルヴァニア州知事を2度務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gifford_Pinchot
 彼は、森林のコントロール<の所管>を、(私的開発者達の諸利害に自分達が奉仕することを旨としていた)内務省から、維持可能な森林管理という精神(ethos)を持っているところの、生まれたばかりの林野庁(United States Forest Service)<(注10)>、へと移すことに成功した。
 (注10)内務省に、1881年に林野課(Division of Forestry)ができ、1901年に林野局(Bureau of Forestry)となっていたが、1905年に農務省に移管され、林野庁が創設された。初代林野官はピンチョット。現在、28,000人を超える常勤職員を擁し、78万平方Kmの国有林野を所管している。
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Forest_Service
 ピンチョットの成功には、高度のパーフォーマンスの、献身的な公共機関(agency)と、そのメディア、諸学会、そして、社会改革者達、との政治的諸同盟の鍛造が必要だった。
 しかし、<フクヤマは、>このような経験から霊感を得ることなく、「ピンチョットのような諸指導者は、現在の米公共生活からは概ね消滅してしまったところの、一種のプロテスタント的宗教性によって駆動されていた」と喝破することで、『秩序と朽廃』を、この挿話を悲観主義的基調で終えている。」(D)
 「米国人達は、答責性に憑りつかれていて、抑制と均衡(checks and balances)の難攻不落の(formidable)システムを構築したため、それがガバナンスを麻痺させてきた。 その結果が、フクヤマの呼ぶところの「拒否権主義(vetocracy)」であり、小さな諸利益集団による、定期的な共通善のための諸措置の阻止だ。
 タイミングもまた枢要なのだ。
 フクヤマは、米国は、「近代国家を持つ前に民主主義化した」、と主張する。
 その帰結が、頂点における権力の空白であり、それが、<米国において、>贔屓(patronage)と腐敗を殷賑たらしめた。
 この問題は、今日に至るまで生き残っているが、それも、完全に法的な形でだ。
 いかなる他国においても、公衆の共感(sympathy)に疎い、カネを支払われるロビイスト達が、政府に対してこれほど影響力を行使してはいない。」(B)
 「フクヤマの楽観主義に対する真の挑戦は、彼が認めるように、難渋している(struggling)アフリカではなく、ずっと自分達の所に近いところ<である、米国>から来ている。
 1989年の論文にはなかった、彼の分析中の新しい要素は、米国の民主主義についての彼の凄まじい(damning)描写(portrait)だ。
 没落しつつある中産階級、際立って(starkly)増大しつつある所得不平等、倨傲なる(overweening)特殊諸利益、そして、党派的交通渋滞(gridlock)、がその帰結であり、自分達の政治家達は、もはや自分達のために論じてくれてはいない、という確信を抱いた何百万人もの米国人達を置き去りにしている、と彼は、「代表の危機」<という章>の中で主張する。・・・
 首相と彼の内閣に議会府に比べて決定的<に大き>な権力を付与するところの、英国のような議会制度は、より効果的な政府をつくる、とフクヤマは主張する。
 しかし、これは絶望的な諮問であることを彼は認めている。
 というのも、いかなる米国人も、米国憲法を、それが何であろうと英国的なものでもって置き換えようなどとはしないからだ。
 英国の範例のような強力な政府に対する疑念は、この国の独立革命の際の政治的DNAに刻まれており、フクヤマが指摘するように、それと同じ疑念が、米国の国家が患っているものを是正(fix)することに関して両者がどれほど意見を異にしようと、<米国の>進歩派と保守派とを団結させるのだ。」(H)
 「他方、米国は、全ての安定した諸社会に共通する呪いにもまた苦しめられている。
 それは、選良達によるぶんどり(capture)であり、フクヤマのこのことについての汚い言葉は「再家督化(repatrimonialisation)」だ。
 それは、諸小集団と諸ネットワーク・・諸家族、諸企業、優良(select)諸大学・・が、自分達自身にとって有利に動かすために、いかに権力が動いているかについての自分達の内部知識を、自分達が利用すること、を意味する。
 それは、あたかも、社会科学的隠語のように聞こえるかもしれないが、その全ては余りにも真実なのだ。
 すなわち、もしも、次の大統領選挙がクリントン対ブッシュ<の戦い>に再びなったとすれば、我々は、それが、我々の眼前で起こっていることを目撃することになるだろう。
 真の政治的安定は、民主主義の積極(positive)と消極(negative)の両側面がしっかりと結合(cohere)した時に訪れる。
 すなわち、自分達の諸政府の権力をコントロールする人々が、それらを高く評価する時にだ。・・・
 フクヤマは、このところの世論調査で最も高い評価が得られている米国の諸制度である軍とNASAが、民主主義的監督(oversight)を最も受けていない二つの存在であることの皮肉を指摘している。
 米国人達が本当に憎んでいるところの、例えば議会のような諸制度は、彼らが自分達自身でコントロールしている諸存在なのだ、と。」(I)
(続く)