太田述正コラム#7408(2015.1.6)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その14)>(2015.2.23公開)
 「捕虜となることへの恥辱観・不名誉観が「公式の規範」として制度化してきた背景には、日本が1925年のジュネーブ条約に加入しなかったという事実がまずあげられる。
 しかしながら、「捕虜になることは恥」だというインフォーマルな社会的規範は明治期からすでに個人的な倫理規範としては散見されており、それが次第に陸軍組織、ひいては社会全体の規範となった、というのが秦<郁彦(コラム#1679、1698、2902、3251、3496、3532、3536、3546、4093、4119、4131、4134、4137、4163、4167、4576、4749、5591、6209、6223、6236、6289)>の推測<(コラム#4576)>である・・・。
 第二次世界大戦中に捕虜となることを禁止した軍隊は日本軍だけではない。
 ジュネーブ条約に加入していなかったソ連軍や中共軍も捕虜となることを禁止していた。
 ソ連軍の自決もまれではなかった。
 捕虜となったソ連軍将校の家族は配給を止められ、捕虜が生還した場合にはシベリア送りにされたという。・・・
 「無降伏主義」をとるソ連軍と対峙したドイツ軍は、「捕虜となることは名誉」なことであり、降伏も辞さなかったが、戦闘を重ねるうちにその態度を変えた・・・」(19、301~302)
⇒これらは、私が朧げの認識しか持っていなかった事柄ですが、中共軍がそうであったとすれば、同軍と断続的に戦い続けたところの中国国民党軍もまた、タテマエはともかくとして、(ソ連軍と戦ったドイツ軍同様、)捕虜になることは事実上なかった、と見てよいのではないでしょうか。
 そのような背景があったからこそ、日本軍による、1937年の南京事件・・私見では基本的に捕虜大量殺害事件・・が発生したし、また、兵士のためのイニシエーションの仕上げとしての捕虜刺殺「訓練」も行われた、であろうことに、我々は理解を示すべきでしょう。(太田) 
 「第二次世界大戦経験者では「虐殺行為」に参加した者の割合はわずか4%にすぎないのに対し、ベトナム戦争経験者では33%と8倍にものぼっている・・・。
 おなじ国の軍隊でも、「勝ち戦」と「負け戦」では兵士の行動のパターンが異なることがわかる。」(302)
⇒河野は、ここでも無知を曝け出してしまっています。
 ベトナム戦争において、米軍は、個々の戦闘において、常に、ベトコンないし北ベトナム軍に勝利したにもかかわらず、そして、戦争そのものにも勝利直前であったにもかかわらず、米国内での厭戦ムードに「敗れ」、最終的勝利を逸しただけなのであり(典拠省略(、というか、典拠など必要のない常識に近い))、ベトナム戦争での米軍による「虐殺行為」の突出的な多さは、相手がゲリラ戦を展開した・・一般住民を意図的に巻き込んだ・・こと、及び、人種差別意識、が原因であると見るべきなのです。(太田)
 「あくまでも兵士たちは「自分の身近に戦友」がいるからこそ戦うことができるし、勇気を出して投降することもできるのである。・・・
 <これ>は、日米両国の文化的相違を越えて、やはり「戦争における単純な真実」なのであろう。
 大岡昇平の『俘虜記』<(注13)>にも、この「戦争の真実」が<以下のように>吐露されている。
 (注13)「大岡昇平が1948年に発表した連作小説。あとがきには「俘虜収容所の事実を藉りて、占領下の社会を諷刺するのが、意図であった<とある。>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%98%E8%99%9C%E8%A8%98
 大岡昇平(1909~88年)は「日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。・・・ 府立一中受験に失敗。青山学院中学部に入学、キリスト教の感化を受ける。・・・成城第二中学校4年に編入・・・成城中学校が7年制の成城高等学校とな<り、同校を>・・・卒業<し、その上で、>・・・京都帝国大学<仏文科>卒業」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E6%98%87%E5%B9%B3
 私は俘虜となることを、日本の軍人の教えるほど恥ずべきものとは思っていなかった。兵器が進歩し、戦闘を決定する要素において人力の占める割合が著しく減少した今日、局所の戦闘力に懸絶を生ぜしめたのは指揮者の責任であり、無益な抵抗を放棄するのは各兵士の権利であるとさえ思っていた。しかし、今現に自分が俘虜になって見ると、同胞がなお生命を賭して戦いつつある時、自分のみ安閑として敵中に生を貪るのは、いかにも奇怪な、あるまじきことと思われた。」(308~309)
⇒歴史「小説」でさえ、史実を改変してはならないと主張した大岡(ウィキペディア上掲)のことですから、『俘虜記』では当時の自分の本当の気持ちを書いていると思われるところ、「恰好がつく戦闘ができなくなればなるほど、日本軍部隊や個々の兵士が、米軍によって一方的に嬲り殺されるよりは降伏を選ぶようになっていった、というだけのこと」と前の方で提示した私の考えを、大岡は裏打ちしてくれています。
 つまりは、その折にも指摘したように、先の大戦末期における日本軍の大量降伏は、河野が提示していた「規範の崩壊」のせいなどではなかったらしい、ということです。
 このことを自覚しているためかどうか定かではありませんが、河野が、ここで、「自分の身近<の>戦友」(第一次集団の絆)論を持ち出していることには首を傾げざるをえません。(太田)
3 終わりに
 米国文明優位論者/米事大主義者、であるように見受けられる河野が、自分の世界観を抜本的に改めることを強いられてしかるべきインタビュー証言を、随所で平気で紹介していることに、私は、奇異の念を覚えさせられました。
 かつて私は、日本の有識者に、往々にして、連歌的論述(コラム#763Q&A、991、1044、1067Q&A、2322、2867、2921、3647、4786、5368)が見られる、と指摘してきたところですが、さしずめ、神島二郎(コラム#1044)は出来の良い範例、松尾匡(コラム#5326以下)は出来の悪い範例、であるとすれば、河野仁もまた、後者の範疇に属す、というべきでしょうね。 
(完)