太田述正コラム#7492(2015.2.17)
<オンリー・イエスタデー:米国の黒人虐殺(続)>(2015.6.4公開)
1 始めに
 米国の建国の父である二人の大統領であるワシントンとジェファーソン、及び、米国の第二の建国の父とも言うべき一人の大統領であるリンカーン、のいずれ劣らぬ醜悪な人種主義者ぶりについては、これまで何度も取り上げてきたところですが、ワシントンの醜悪さを上塗りする事実を盛り込んだコラムに本日接したので、さっそく取り上げることにしました。
 思うに、ワシントンには、ワシントン記念塔(Washington Monument)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%A1%94
トーマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson)、
http://www.expedia.co.jp/Jefferson-Memorial-Washington.d503266.Place-To-Visit
そして、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8
というメガ記念施設群があり、役所勤務当時にワシントンを訪れた際、それぞれの外観は目にしつつも、時間がなかったこともあり、いずれも「礼拝」していなかったのは怪我の功名と言うべきでしょうか。
 それにしても、ワシントンが、現在、黒人が多数を占めている都市であるにもかかわらず、これら施設の閉鎖、破却、を求める運動が存在しないことに、私は信じられない思いがしています。
 いや、全米の黒人のみならず、全米の白人の間からだって、そういう声が出てしかるべきでしょう。
 恥ずかしくて正視に耐えないはずなのに・・。
 そんな米国の属国であり続けてきた戦後日本人の方がもっと恥ずかしいと思うべきかもしれませんがね。
 では、さっそく始めましょう。
2 ウルトラ奴隷大好き人間ワシントン
 「・・・11歳の時に、ワシントンは彼の父親の財産(estate)の中から10人の奴隷達を相続した。
 彼の家族の成員達の死や直接購入を通じて、彼は奴隷達を獲得し続けた。
 ワシントンの奴隷にされた人々の隠匿貯蔵数(cache)は、彼が金持ちである未亡人・・・と結婚した1759年に最大に達した。
 彼の新しい妻は、<ワシントンの居宅のあった>ヴァーノン山(Mount Vernon)の地所(estate)に80人を超える奴隷達を持参した。
 米独立革命勃発時には、150人近くの人間達が、そこの財産(property)の一部を構成していた。
 1789年に、ワシントンは米国の初代大統領・・黒人奴隷を用いかつ容認(sanction)した農園主(planter)たる大統領・・になった。
 ワシントンは、彼の富、彼の生活様式、及び、彼の評判、を維持するために奴隷労働を必要とした。
 加齢するにつれて、ワシントンは、自分自身をこの殺人的(murderous)制度から脱出(extricate)させる諸試み・・1778年に、彼は、有名にも、「ネグロ達を片付けたい(to get quit of)」と記した・・を弄んだ(flirted with)。
 しかし、彼はそれをついにやらなかった。
 大統領としての2任期の間に、ワシントン一家は、まずニューヨークへ、次いでフィラデルフィアへ引っ越しした。
 奴隷制は北部では着実に減少していたというのに、ワシントン家の人々は、それなしには生きていけないと決した。
 フィラデルフィアに落ち着くと、ワシントンはその地域における奴隷所有に対する最初の道路障害に遭遇した。
 ペンシルヴァニア州の1780年の漸次的奴隷制廃止法(Gradual Abolition Act)だ。
 この法律は奴隷制を解体し始め、最終的に、28歳の誕生日を迎えた後に鎖から人々を解放する、というものだった。
 この法の下では、所有主と共にペンシルヴァニア州に入境したいかなる奴隷も、6か月以上同州で生活したら自動的に自由となる、とされていた。
 これは、この新大統領にとって問題だった。
 ワシントンは、自分の財産を守り、彼が公的追及(scrutiny)を受けないようにする、抜け目ない(canny)戦略を打ち立てた。
 6か月ごとに、この大統領の奴隷達は、ヴァーノン山に帰る旅行(travel)をするか、州境の外にワシントン夫人と一緒に旅行(journey)したのだ。
 要するに、ワシントン家の人々は、<何度も>時計を蒔き戻した、ということだ。
 大統領は、彼の個人秘書・・・に、1791年に書き送った際、秘密めかしていた(secretive)。
 「私は、これらの私の諸感情やこの助言が、君自身とワシントン夫人以外の誰にも知られないようにするよう要請する」、と。
 大統領は、黒人達の諸命にカネを投資したところの、奴隷所有主達を守るであろう諸政策を支持し続けた。
 1793年に、ワシントンは、最初の逃亡奴隷法に署名した。
 この法は、全ての州で、逃亡奴隷が、裁判にかけられ、彼らの所有主達に返還されることを認めた。
 逃亡奴隷をかくまったり助けたりした者は、誰でも、500ドルの罰金或いは投獄に直面した。
 ワシントンは、もう少しで、彼の大統領任期中、自分の奴隷所有に係る一つの大きな事件もなしに過ごせるところだった。
 ところが、1796年5月の春のある宵、ワシントンの22歳の奴隷女たるオナ・ジャッジ(Ona Judge)が、大統領のフィラデルフィアの家からこっそり抜け出した。
 15歳の時に、彼女は、彼らの、北方居住様式(Northern living)視察旅行の際に<所有奴隷群に>加わった。
 彼女は、大統領及びその家族とフィラデルフィアで一緒に生活していた9人の奴隷達の小さな一群の中の一人だった。
 ジャッジは、<ワシントン夫人>の侍女長であり、同夫人の個人的所用の面倒を見ていた。
 ジャッジが逃亡を決めるに至った理由は、<ワシントン夫人>の、彼女を孫娘に結婚祝いとして与えようと言う計画だった。
 ジャッジは、フィラデルフィアから、ニューハンプシャー州のポ-ツマスに逃げた。
 同市には360人の自由な黒人がおり、事実上奴隷達がいなかった。
 到着後数か月以内に、ジャッジは・・・自由な黒人水夫・・・と結婚し、3人の子供達をもうけることになる。
 ジャッジと彼女の子孫達は、奴隷捕獲者達にとっては貴重な存在だった。
 ジャッジ一家は、自由な人々として生きたけれど、法的には<ワシントン夫人>に属していた。
 ワシントンと彼の手先達は、友人達、役人達、及び、親類達を派遣して、彼女を発見し再捕縛すべく3年間、ジャッジを追跡し続けた。
 彼の死の12週間前にも、ワシントンはまだ積極的に彼女を追跡していたが、緊密な協力者達の助けにより、ジャッジは、彼の奴隷捕獲者の手から逃れることに成功した。
 ジョージ・ワシントンは1799年12月14日に亡くなった。
 彼が亡くなった時、318人の奴隷にされた人々がヴァーノン山に住んでいたが、そのうち半数未満がこの元大統領に属していた。
 ワシントンの遺言は、彼の妻の死の後に自分の奴隷達が解放されるよう呼びかけていた。
 彼は、死において、生きているうちにはやろうとしなかったことをやってのけたわけだ。
 しかし、それは、彼が相続を待ち受けている実子達がいなかったことによって、より容易となった行為だった。
 <ワシントン夫人>は1802年まで生きたが、死亡後、彼女の、人たる財産の全てが彼女の相続人達の手に渡った。
 彼女は、ただの一人<の奴隷>も解放しなかったのだ。
 ある記者に、ワシントン家の人々のところを去ったことに後悔の念はないかと聞かれたジャッジはこう答えた。
 「ありません。私は自由であり、この方法によって神の子となった、と私は信じている。」
 オナ・ジャッジは1848年2月25日に亡くなった。
 爾来、毎年、2月が訪れるごとに、彼女は称賛(earn a salute)され続けている。」
http://www.nytimes.com/2015/02/16/opinion/george-washington-slave-catcher.html?ref=opinion
(2月17日アクセス)
3 終わりに
 ずっと以前、ワシントン夫人は、夫の死後、いたたまれず、夫が所有していた奴隷達を解放した、と記したことがありますが、どうやら間違いだったようです。
 ワシントン夫妻は、まことにもってお似合いの、醜悪かつせこいカップルだった、ということのようですね。
 それにしても、これほど醜悪な人々が、信奉し、奴隷制を正当化するために活用し、しかも、自分達に押し付けたところの、キリスト教の神の子と称したジャッジが可哀想で仕方がありません。
 そもそも、彼女は、かかる醜悪な人々によって、本来の名前すら奪われ、オナ・ジャッジなどという、ヘブライ語由来の名
http://themeaningofthename.com/ona/
と英語由来の姓を名乗らされていたというのに・・。